冬の蠅

冬の蠅


 暖冬のまま春になるのかと思った。冬がまた戻ってきたようだ。暖房が欲しくなる。今夜などキイボードを叩く指が冷え、両手をすりあわせたりする。
 深夜、机に向かって仕事をしていたら、なんだからふらふらと黒いものが横切って行く。卓上蛍光灯の縁にとまった。
 目をこらすとちいさな蠅だった。
 蠅を見たのは何年ぶりだろう。田舎を離れて二年近くなる。でも今時田舎でも滅多に蠅はいなかった。記憶にない。猫が元気だったとき、猫用トイレの掃除を怠ると飛んできたか。いや私は猫を溺愛していたのでトイレはいつもきれいだった。人様のトイレは汚くても猫のトイレはいつも清潔だった。蠅を見たのはいつ以来だろう。


 田舎時代、滅多に見かけないからこそたまに登場する蠅の煩わしさは格別だった。天井にとまり、思いついたように飛び回られると羽音が気になっていられない。父母のいる階下から蠅叩きを持ってきて奮闘する。ジェット噴射が売りのフマキラーの殺虫剤を噴きまくる。たかが蠅一匹にたいそうな騒ぎだった。
 こういうのは慣れである。インドのように黒いテーブルだと思って近づいたら一斉に蠅が飛び立ち実は白いテーブルだったという暮らしをしていれば、顔に何匹か蠅がとまっても平気でいられる。そういう生活を本筋と思っているのだが、現実にはたった一匹の蠅がいるだけで仕事が手につかなくなり追いかけっこをしているのだった。


 先日まで一年半ほど住んでいた国立も快適な場所だった。八階ということもあったろうが、田舎から持ってきたそのジェット噴射も電気蚊取りもまったく使うことはなかった。
 室内で蠅を見たのは何年ぶりだろう。この寒さの中、このちいさな蠅はどこからやってきたのだ。こんな真夜中に。


 ふらふらと浮遊するちいさな、ほんの五ミリほどの蠅なのに、久々に見かけたものだから私は反射的にジェット噴射の殺虫剤を探し始めていた。まだ引っ越し荷物のいくつかは荷ほどきをしていないが、そのうちのひとつにそれが有ったことを覚えていた。取り出して台所のしたに収納したような、いや使うこともあるまいとそのまま段ボール箱に入れたままだったような。ひとしきり探し回った。


 こういう熱狂はすぐに冷める。ほんの一二分探していたろうか。見つからないまますぐにつまらないことをしている自分に気づいた。たかが蠅一匹、それもうるさく飛び回るのならともかく、まるで死にかけた蚊のようにふらふらと飛んでいただけではないか。なにをむきになっているのだと恥ずかしくなった。


 机に戻り、椅子にすわって、まだ卓上蛍光灯の端にとまっている黒い点に指を振ると、力無く飛び立って行った。
 蠅のとまっていたしたに猫の写真があった。平成十二年の一月十日に死んだからもう七年になる。でもどこに行っても離すことなく持ち歩いてる写真だ。元気なときのかわいい溌剌とした写真がいくらでもあるのに、なぜか私は死ぬ十日ほど前に、医者からもう点滴も無理だと宣言されたときポラロイドカメラで撮ったこの最後の一枚が愛しく、原板は大事に仕舞い、スキャンしてコピーしたものをいつも卓上に飾っていた。栄養が体に廻らなくなり、毛がパサパサになったなんとも痛ましい姿である。だがこれから飲まず食わずで、いや厳密には私が死の直前までスポイトで無理矢理口を湿したから飲まずではないのだが、一週間生き抜いて骨と皮になり死んでいった彼の姿はこんなものではなかった。本当に骨と皮だけになり私の腕の中で息絶えた。絶対に姿を消して死なないでくれ、俺の腕の中で死んでくれと言い続けてきた約束を守った即身仏のような姿だった。かなしみが体の中で渦巻き迸った。今までの人生でたった一度だけした号泣である。これからもすることはないだろうししたくもない。死の旅に出る直前のこの一枚が私には最も愛しいものになる。



 旧友と話したあと猫の写真に目がとまり、呼びかけたら涙が出た。感傷的になったときよくあることなのだが今回は数ヶ月ぶりだったように思う。あまりに慌ただしい変化が続いたので話しかけている餘裕さえなかった。彼と暮らした十五年は私の中で今も色あせることなく輝いている。友人であり恋人であり息子であり何でも懺悔できる私だけの物言わぬ牧師様だった。
 外国から深夜に帰ると、庭に三つ指突いて待っていてくれた時を思い出す。私が帰るときは必ず庭に出迎えてくれた。ヘッドライトに彼の姿が浮かび上がる。ドアを開けるとにゃーと泣いた。抱き上げてほおずりする。喉をごろごろと鳴らす。私が数ヶ月ぶりに外国から帰る日、その日に限っていくら家の中に入れても出ると言って聞かないのだと母が驚いていた。彼の体を抱き上げてほおずりするとき、それが私にとって日本に戻ってきた証だった。
 そんなことを思い出し涙を滲ませたのが数時間前だった。そのあとパソコンに向かって集中して文を書いていたからすっかり忘れていた。
 猫の名をつぶやく。彼だったのかと思う。
 七年も経つのにまだ写真を見て泣いている私を思って彼がやってきたのだ。もう泣くなと言いに蠅の姿でやってきたのだ。
  
 蠅の消えた方向を見たがいなかった。どこからやってきたかわからない蠅はどういう方法でかまた姿を消していた。
 たぶんそれはどこかのゴミ箱から発生した蠅が通風口でもくぐって迷い込んできたのだろう。それだけのことにちがいない。
 でも食物など置いてないこの閉め切った部屋に、どこからどうやって入ってきたのだ。こんな冷え込む夜に。そしていまどこに消えたのだろう。
 冬の蠅。

関連記事
  1. 2007/03/14(水) 14:57:05|
  2. 生活
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<白川道のタバコ──『天国への階段』感想文──そこいら中、タバコだらけ | ホーム | 新『お言葉ですが…』始まる!>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://moneslife.blog.fc2.com/tb.php/70-9ba2ea12
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

fc2moneslife

Author:fc2moneslife
2001年に始めたサイトMone's World--http://monetimes.
web.fc2.com/の出張版ブログ【木屑鈔】Boku-setsu-shouです。
2005年からやっていたライブドアブログから引っ越してきました。
FC2のサイトは2007年から利用させてもらっていました。これでやっとサイトもブログもFC2で統一です。
メールは、moneslife2000
@kpe.biglobe.ne.jpまで。

最新記事

カテゴリ

未分類 (0)
大相撲 (32)
落語 (6)
生活 (85)
パソコン (78)
ことば (41)
読書 (29)
音楽 (50)
政治 (200)
テレビ (27)
インターネット (91)
漢字 (6)
オリンピック (11)
マスコミ (46)
NHK (2)
プロレス (6)
世相 (91)
総理大臣 (7)
映画 (21)
スポーツ (8)
園芸 (3)
将棋 (71)
Jazz (7)
競馬 (20)
芸能 (32)
旅行 (10)
格闘技 (4)
漫画 (14)
橋下徹 (16)
タバコ (4)
Rock (2)
中共 (11)
宗教 (9)
週刊誌 (7)
皇室 (9)
地震 (39)
台湾 (5)
石原慎太郎 (10)
CM (2)
きっこ (23)
地デジ (7)
朝鮮 (23)
国民栄誉賞 (2)
ツイッター (8)
女子サッカー (1)
野田聖子 (9)
訃報 (10)
ブログ (11)
飲食 (11)
電王戦 (2)
竹島 (9)
靖國神社 (6)
デヴィ夫人 (6)
酒 (4)
節電 (1)
ホッピー (5)
小沢一郎 (9)
Windows8 (2)
たかじん (5)
島耕作 (1)
物品 (3)
テレサ・テン (2)
選挙 (8)
佐川急便 (8)
猫 (1)
白川道 (1)
サヨク (14)
麻雀 (1)
郵便 (1)
通販 (1)
Asus Memopad (1)
文章 (2)
携帯電話 (1)

月別アーカイブ

カテゴリ別記事一覧

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する