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Wikipediaのわかりにくい文の例──二所ノ関部屋の歴史から──アラビア数字と漢数字

 Wikipediaの文章がわかりにくいと何度か書いている。見かけるたびに、それを引いてブログテーマにしようと思うのだが、いつもそのままになってしまう。今回気になることがあった。忘れないうちに書いておこう。大相撲の二所ノ関部屋の項目だ。


1909年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名した関脇・海山は、1911年(明治41年)1月場所限りで引退して友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。なかなか弟子に恵まれなかったものの、苦労して玉錦を大関に育て上げた。しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。

1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した。
当時の二所ノ関部屋は稽古場さえ持たないほどの弱小な部屋だったが、猛稽古により一代で部屋を大きくし、先代弟子から関脇・玉ノ海や幕内・海光山などといった関取を育てた。しかし、勧進元も務めてこれからという1938年(昭和13年)12月に虫垂炎を悪化させ、腹膜炎を併発して34歳の若さで死去した。



 いきなり餘談だが、私のような世代の相撲好きにとって二所ノ関部屋は超名門である。日本プロレスの開祖・力道山のいた部屋であり、大横綱大鵬、大関大麒麟を輩出している。先代が亡くなり、後継問題で揉めるという事件もあった。結果的に先代の(調停役として短期の暫定親方をおいたので正確には先々代になる)の娘婿になるという寝業を使った〝ホラ吹き金剛〟が継ぐことになる。金剛もまた平幕優勝したりして話題の力士だった。この〝ホラ吹き〟は、大言壮語することで有名だった〝ホラ吹きクレイ〟から来ている。モハメッド・アリの前名だ。自分よりも格下の弟弟子金剛の親方襲名に不満を持った大麒麟は独立を申し出るが許されない。大麒麟は弟弟子を連れて寺に立て篭もる。このときほとんどの力士が金剛ではなく大麒麟にしたがった。私は裏事情を知らない一相撲ファンだったが、「大麒麟が正しいのだろうなあ」と思ったのを覚えている。大言壮語する金剛とは対象的に大麒麟は力士には珍しい読書好きでインテリ力士と言われていた。ま、正直、のっそりしていて好きな力士ではなかった。なんというか、四股の足があがらないのがかっこわるかった。大鵬は自分のことを天才と呼ばれるのを嫌い、よく口にしたのが「大麒麟のほうが自分よりも天才だ」だった。
 解決まで揉めに揉めたが、大麒麟の独立を許すという形で決着する。押尾川部屋の誕生である。しかし有力な力士を連れて行くことは認められなかった。大麒麟を尊敬している天龍は立てこもり事件でも行動をともにしていたが、米櫃の幕内力士だから二所ノ関部屋に残らされる。それを不満として天龍は引退する。まだ27歳。大麒麟へのを義を通した行動だった。その後プロレス入りを発表する。あの騒動がなければ天龍のプロレス入りはなかった。そういう経緯もあってデビューのころの天龍はいつも沈鬱な顔をしていて、ちっともプロレスが愉しそうではなかった。アメリカ修業からの帰国後も伸び悩んでいた。ふっきれるのはロビンソンとタッグを組んだあたりからか。でも天龍は自分でも認めていたが大関になれたかどうか。たぶんなれなかったろう。プロレスでは横綱になった。果たしてどっちがよかったのか。あれこれと思い出の尽きない名門である。
 一方で友綱部屋は、魁輝が大関魁皇を育てあげ、四股名の「魁シリーズ」が注目を浴びるまでは地味な部屋だった。長年閉鎖されてもいた。しかし歴史的には「二所ノ関部屋は、友綱部屋から分離独立した」のである。あちらのほうが超名門二所ノ関部屋の本家なのだ。Wikiを読む愉しさはこんなところにある。
 名門二所ノ関部屋は、金剛親方時代に活躍する力士が出ず、後継者もなく昨年閉鎖された。金剛も今年故人となった。政略結婚だったから親方の娘とは離婚している。歴史的には「人望のある大麒麟が継ぐのが正解だった」となるだろう。だが押尾川部屋も益荒男の独立問題でおかしくなった。歴史は繰り返すのか。
「二所ノ関部屋が不振により閉鎖」というのは「超名門」と認識して育った私の世代には信じがたい事件だった。活躍力士が出なければこんなこともあるのだ。二所ノ関部屋の力士が移籍した(吸収された)のは松ヶ根部屋だった。大関若嶋津が創立したあたらしい部屋だ。あの二所ノ関部屋が松ヶ根部屋に吸収合併されるというのは、わたし的にはメダカがクジラを呑みこむような感じである。相撲部屋の栄枯盛衰を見ていると、なんとももののあわれを感じる。


 閑話休題、書帰正伝。二所ノ関部屋の由来に関する上の文。
《しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し》と読んでいて、私は「大関の玉錦が、横綱昇進前に胃癌で死んだ」と思った。この文章の主語は「玉錦」なのだから。しかしそのあと《弟子は粂川部屋に預けられた》と続くのが奇妙。大関が死んで弟子が預けられるという流れがわからない。「弟子」とは誰の弟子なのだ。昔も今も力のある力士は現役中に弟子を取る。内弟子だ。独立したときにはそれを率いる。魁皇は浅香山として独立するときすでにふたりの弟子を持っていたし、横綱白鵬ももう内弟子を持っている。とすると「大関玉錦がガンで死んだので、その内弟子は粂川部屋に預けられた」という意味だろうか。

 このあと《1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した》と続く。玉錦は死んでいなかったのだ。生きていて横綱になったのだ。となると死んだのは誰だとなり、その前からの文の主役である《5代二所ノ関を襲名した関脇・海山》であるとやっとわかった。というのはウソ。私は玉錦が横綱になった、というか、横綱玉錦が二所ノ関部屋の基礎を築いたことを知っていた。だから「やっとわかった」は大袈裟だが、でも一瞬「え?」となったのは事実。知っている私でもそうなったのだから誤解したひともいるだろう。中学生の國語の問題として「この文の主語は誰か!?」と出題するなら、誰でもすこし考えて「海山」と正解を出せるだろうが、言いたいのは辞書辞典で「え?」と思わせてはまずいのではないかということだ。

《しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。》の問題点は主語がないことである。ここに「しかし海山は、玉錦が横綱に昇進する前に死去し」と本来の主語の「海山」を挿れるだけでまったくちがってくる。それがないとこの文章の主語は「玉錦」になってしまう。それでは意味が通じない。英文で訳したとして比べるとわかりやすい。
 
「しかし玉錦が1932年10月に横綱に昇進する直前の1931年6月に胃癌で死去し」と、
「しかし海山は、玉錦が1932年10月に横綱に昇進する直前の1931年6月に胃癌で死去し」は、英語なら主語の異なるまったく別の意味の文になる。日本語は英語とちがい、主語を略しても成立する性質を持っている。ここでも前段を受け「海山」という主語を省いているのが日本語の味わいだ、と言うひともいるかもしれない。そうだろうか。

そのあとの玉錦の人生を語る、《1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した》も主語のない文である。日本人ならそれは「玉錦」のこととわかるが、これを自国のことばに訳して紹介しようとする異国人Wikipediaライターは戸惑うだろう。主語がないのだから。
 これも《1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、玉錦は6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した》と挿れればいいだけのことだ。しかしこれは「玉錦」がかぶるみっともない文だ。それをしないことが「日本的省略の美」であり、日本語の文章独自の美しさなのであろうか。いやそれ以前に、「6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した」と書く日本語感覚はなんなのだろう。いくつぐらいの、どんなひとが書いているのか興味深い。部屋の師匠に就任したはかなり滑稽だ。

 下に書くが、Wikipediaの文は各国語に翻訳され世界に流れるものである。よって漢数字で表すべき部分もみなアラビア数字になっている。それは許容せねばならない。そういう世界なのだ。Wikiの使命とは事典として「情報を正確に伝えること」であり、それが各国独自の表現よりも上に立つ。各国が自国の文章表現の美に酔ったなら、世界共通百科事典として翻訳の際に混乱を招くことになる。Wikiの文が川端康成や村上春樹である必要はない。

 こういうタイプの文が多い理由を、Wikipediaのライターが日本的表現の美にこだわったゆえに、とは思わない。これは、Wikiの文章の問題として指摘した「いちどに全部を言おうとし過ぎる」ことが原因であろう。二所ノ関部屋設立の由来を、なにもそんなに一気に「これこれこういう出自の力士が西暦何年(年号何年)にこういう経緯で創立し、西暦何年(年号何年)まではこれこれこういう理由で苦労したが、西暦何年(年号何年)に、これこれこういう理由で流星するが、でも西暦何年(年号何年)にこれこれこういう問題が起きて、これこれこういう理由で死んだ」と、創立者の人生を経歴や設立年度、死まで一息に言う必要はないのである。「設立に到る過程」と「弟子を育てるまでの苦労」、「その後の死ぬまで」を分けて書けば問題は起きない。そのほうがよりわかりやすい。なのに一気に書こうとするから足がもつれる。

 これはそのあとの「玉錦の項」にも共通している。冒頭の文は、連続しており、上段が「海山の一生」、続いて「玉錦の一生」だ。ふたりの人生を一息で語ろうとする。海山の最後は《しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。
》、玉錦の最後は《しかし、勧進元も務めてこれからという1938年(昭和13年)12月に虫垂炎を悪化させ、腹膜炎を併発して34歳の若さで死去した》となっている。まったく同じ形式の文だ。ふたりの人生を「あれがあってこれがあって、しかしこうなって死んだ」と一気にまとめようとするので読み辛い。玉錦の結びの文も主語がないが海山の結びよりはわかりやすい。同じ主語のない文でも、海山の生涯が玉錦の生涯よりもわかりづらいのは、玉錦が「これからというときに死んだ」とまとめられているのに対し、海山は「死去し、弟子は粂川部屋に預けられた」と、一生に加え死んだ後のことまでも一息に書こうとしているからである。一般原稿だと字数制限があるから主語を省いたり限られた字数ですこしでも多く情報をいれようと焦ったりする場合はある。しかしこれはネットの文である。字数制限はない。締切もない。なのになぜこんなに言いたいことを一気に言おうとしてよれよれになっているのだろう。そしてまたその文で、なぜ主語を明確にせずわかりにくくするのだろう。不可解である。

 たいした問題じゃない。「ん?」と一瞬思うが、すぐに「ああ、そうか」と理解できる。しかしこの「ん?」が「誰でも書きこめるWikipedia」にはやたら多いのだ。辞書を引いての「ん?」はいらない。「ん?」を解決してくれるのが辞書だ。便利さに感謝しつつも、この辺の不備はかなり苛つく。


 英語崇拝者により昨今の日本語は壊されている。典型的な例に「単数・複数」への異様なこだわりがある。「鳥が飛んできた」では「一羽か複数かわからない」とばかりに「鳥たちが飛んできた」とやる。英語はBirdとBirdsと単複を分ける、なのに日本語はあやふやだという英語信奉である。かといって英語も、一羽と二羽以上の区別はあっても、二羽と三羽の区別はない。どうでもいいことである。しかしこだわるのがいる。「男女」も同じだ。男と女がやってくる。「彼ら」でいいのだが、それでは男だけだと勘違いされると「彼彼女等」と書いたりする。男女同権か。
 
 日本語を貶める英語崇拝者が大嫌いな私としては、上記のようなWikiの文に関してもむしろ「主語が曖昧でも成立するのが日本語の秀でた点だ」と肩を持ちたい。しかし持てない。これはやはりただのへたな文章であろう。

 Wikiには世話になっている。インターネット環境のない場所に行くとき、可能な限りの辞書をHDDに挿れて行くが、それでも調べられないことは多い。上のような大相撲のことなどはWikiがないとお手上げである。異国の果てで突如むくむくと湧きあがってきた疑問点。知りたい知りたい。あれはどうだったんだっけ!? しかし調べる術がない。背中の痒いところに手の届かないもどかしさ。「ああ、こんなときWikiを引けたら」と何度思ったことか。Wikiには感謝ばかりで批判など出来る立場にはないのだが、それにしても下手な、というか基本的な日本語を書く技術を有しないひとたちが、大勢出入りしているところではある。

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【補記】──アラビア数字、漢数字

 Wikipediaはインターネット世界に存在するグローバルなものである。外国や外国人に関する文などはみな「翻訳」だ。相撲のような日本独自の文も、興味を持った異国のひとたちによって翻訳されて行く。だから日本のなんとか新聞が数字表記をすべてアラビア数字に統一しているように、Wikiの数字がアラビア数字なのは当然なのだろう。もともとがそっちの世界なのだから。コンピュータは0と1で構成されるアラビア数字の世界だ。

 文句は言いたくない。でもなあ、親方の代なんかは漢数字で書いて欲しい、と思ってしまう。「五代目二所ノ関親方」だろう。「5代目二所ノ関親方」はどうも……。まあこの場合は「何代目かわかればいい」と割り切るべきなのだろう。Wikiはそういうものだ。そう統一しているのだろうし、そこまで望んじゃ罰が当たる。テレビでいま「ひとつ、ふたつ」を「1つ、2つ」と表する時代だ。腹立つことなく我慢せねばならない。

 Wikipediaはそういうものだとあきらめるとしても、個人の表記はそれとはちがう。知りあいに近年将棋に興味をもち、ブログにしったかぶりの浅薄な将棋智識を書き始めたのがいる。彼は棋士の段位を「大内9段」のように表記する。こういうヤツに将棋が語れるとは思えない。

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【追記】──英語版を読んでみた

 主語のない文をどう英訳するのであろうと気になって英語版Wikipediaの「二所ノ関部屋」を読んでみた。以下、全文である。これで全部。創立から代表力士、閉鎖、移籍まで、要点のみをまとめたじつにスッキリしたものである。わかりやすい。見事である。量は日本語文章の十分の一もない。よって原文の足のもつれなど無関係だ。そんなことを気にした自分がバカみたいだった。そこまでWikiは原文を重視していない。


Nishonoseki stable
From Wikipedia, the free encyclopedia

Nishonoseki stable (二所ノ関部屋 Nishonoseki-beya?) was a stable of sumo wrestlers, part of the Nishonoseki group of stables (ichimon) named after it. It first appeared in the late eighteenth century and was re-established in 1935 by the 32nd Yokozuna Tamanishiki while still active. The former ōzeki Saganohana produced the stable's greatest wrestler, yokozuna Taihō, who won a record 32 yūshō or tournament championships between 1961 and 1971. The stable's last head coach, former sekiwake Kongo, took charge in 1976, when he was adopted by the widow of the previous head. He has also been on the board of directors of the Japan Sumo Association. The heya's fortunes declined in later years. It had no sekitori wrestlers after the retirement of Daizen in 2003 and at the end had just three active wrestlers, all in sandanme or below (and one of whom, Kasachikara, was 41 years old). The naturalisation of a Chinese born rikishi, Ryūtei, opened up another spot in the heya for a foreigner, and a Mongolian rikishi was recruited in March 2010, but he retired in May 2011.

In February 2010 general affairs manager Yoshiyuki Inoguchi, a former wrestler for the stable from 1975 to 1993 under the shikona of Nijodake, was found hanged in an apparent suicide.[1]

The stable closed after the January 2013 tournament, due to the ill health of the stablemaster and the lack of a suitable successor to him.[2] All three of its wrestlers retired, with the rest of the personnel (except Fujigane Oyakata) moving to Matsugane stable.
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