小保方さんの抗議文書のアップに「改ざん」「ねつ造」等のかな交じり熟語が見えた。なんとも見にくい。
今時の入力装置は「改竄」「捏造」と出せる。なのにそういう「かな交じり」を使って書いているのは、思うに、小保方さんが会社に提出するような書類では、いまだに「常用漢字の枠組」というのを順守せねばならない決まりがあるのだろう。 アサヒシンブン(笑)のように。
※
これを報じるNHKでは、そのまま「改ざん」「ねつ造」と表示して報道していた。
と書きつつ、いま苦労している。ATOKは「改竄」も「改ざん」も出せる。私は醜いかな交じり熟語は嫌いだからATOKの辞書からすべて削除してしまっている。ATOKを使い始めたころだからもう20年も前にやり、その辞書を引き継いできていることになる。だから出せない。よっていま「改竄」と売った後、「竄」の字を消し「ざん」とやって「改ざん」なる醜いものを作っている。手間が掛かる。しかも大嫌いなものを作るのだから精神に悪い。
NHKはふだんのニュースでも、そんな「かな交じり」にしているのだろうか。むかしはそうだった。いまもそうなのか。それともこれは小保方さんの原文がそうだったから尊重して同じような表記にしているのか。NHK嫌いで見ないので知らない。
※
月曜夜、日曜の「たかじん」をYouTubeで見た。このテーマを取りあげていた。 読売テレビは、小保方さんの原稿のアップで、そこにあるのが「改ざん」「ねつ造」であることを示しながらも、自分達の番組の表示では「改竄」「捏造」としていた。ほっとした。
※
醜い「かな交じり熟語」は、昭和20年から27年まで日本を占領していたGHQの指示により、内閣が漢字数を制限したことから始まる。当用漢字(現在の常用漢字)の意味は「
当面しばらくは
用いるが、そのうち全面廃止する
漢字というもの」の意である。全面廃止が基本だ。いわば1日20本走っていた漢字という電車を、もうすぐ廃線とすると決定し、それでも朝夕の2本だけは走らせたようなものである。20本走って生活に役立っていたのが、たった2本にされたら問題が生じるのは見えていた。命令は占領軍だが、西洋コンプレックスから、お先棒をかついで漢字撤廃運動をした連中もいた。いつだって真の敵は内部にいる。いくらだって逆らえた。でも阿った。
だけどその感覚はわかる気もする。こざかしい連中はいつもそれだ。日本が朝鮮を併合したとき、「ありがとうございます、これからもよろしくお願いします」と日本に阿った朝鮮人に限って、日本が負けたら、「力付くの植民地支配、許すまじ!」と愛国の戦士のようなふるまいに出る。
戦中は「皇軍、またも大勝利、撃ちてしやまん!」と煽っておいて、敗戦したら「私たちはもともと戦争には反対でした」と言いだすアサヒシンブンなんてのも同じ。
※
敗戦した日本が再度独立するのは昭和27年である。いわゆる〝団塊の世代〟は、日本が独立国ではない時代に生まれた鬼っ子になる。狂ったのがいるのもむべなるかな。
敗戦国を支配するGHQの指示により、敗戦国のインチキ内閣が使用漢字制限を厳命する。敗戦国の役所がそれに従うのは当然としても、まともなマスコミなら、そういう政策には抗うと思うのだが、アサヒシンブン、マイニチシンブンを始め、みなそれにすなおに従った。それどころか気味悪い「かな交じり熟語」を率先して作りだした。
漢字制限には従ったが表現は捨てなかった。その歪んだプライド?によって同じ音による置きかえという奇妙なものが生まれた。「交叉点」が「交差点」、「頽廃」が「退廃」のような意味不明のことばである。「義捐金」が「義援金」なんてのもそれになる。適当な同音の字がなく置きかえられないのはひらかなにした。そこから「改ざん」「ねつ造」「だ捕」「ら致」のような醜い、まったく意味のない「かな交じり熟語」が溢れることになる。これらのことばは文字が意味を持つのであり、「音」で表しても無意味である。こういうことをするひとの感覚ってどうなっているのだろう。
小学生低学年のころは難しい漢字はかなで書いて書ける字だけ漢字にした。綿矢りさの「にな川」はそれを遊んだものになる。しかし新聞社のそれはあるまい。
※
かといって私はむずかしい漢字を使うべしという考えではない。逆である。そこまでして漢字にこだわるなという考えだ。
識者がしばしば指摘しているが、こんな意味不明の表現をするなら、他のことばに置きかえればいいのである。簡単に出来ることだ。でもなぜかかたくなに、こんな意味不明の表記にしてもそういうことばを使いたがるのが役所や新聞社なのだ。彼らにはこういう「表記」を醜いと感じる感覚がないのだろうか。役所は役所だからしょうがないと苦笑して諦めるにしても、新聞社はなあ……。新聞社になんかなにも期待していないけど。
※
過日奥多摩を走ったとき、「土砂しゅんせつ作業」という看板を見かけた。「しゅんせつ」は「浚渫」か。
この看板を見たこどもは「しゅんせつって何だろう?」と考えるだろう。「しゅんせつ」とありルビが振ってあったら辞書で調べる。サンズイの2文字からそれなり推測もするだろう。
といって、こんなめったに使わない漢字をルビを振ってまで使えと言っているのではない。ぜんぶをかなにしてまで、そんなにまでして、このことばを使いたいのか、使わねばならないのか、そこが理解できないのである。河川の流路を拡げたり土砂を掬ったりする工事だ。いくらでももっとわかりやすく具体的に表現できるだろう。そのほうが地域住民だってどんな工事かわかっていいだろう。なぜこだわるのか。わからん感覚である。
※
小保方さんの場合は彼女の好みの表記ではなく、立場上たぶんそう制限されているのだろうと感じた。
NHKは、テレビ局以前に役所だから、ああいう表記をするのだろう。
小保方さんの「改ざん」「ねつ造」を確認しつつ、「改竄」「捏造」と表記した読売テレビに拍手を送りたい。
しかしまた原点に戻れば、小保方さんがそういう用語を使わねば、私もこんなことを書かずに済んだ、という話になってしまう。でも30歳の小保方さんでも「改竄」「捏造」ということばを使わねばならないという思い込みはあるのだろう。私だったら「改ざんしたつもりはありません」とかな交じりの表記を使うぐらいなら(規定により使わねばならないのなら)、「自分の意に添うような書きかえをしたつもりはありません」「悪意をもった書き直しはしていません」のように別の表現にするけれど。 それじゃダメなのか!?
---------------
【追記】──曖昧さの価値?──4/10
昨日は小保方さんの涙と笑顔の会見があり、夕方からテレビはそれ一色だったようだ。夜のニュースで5分ほど見た。すぐに消した。ま、その程度でいい。
さて、上記の例で、「なぜこんなわかりにくい表現をするのか!?」と疑問を抱いたのだが、もしかして「わかりにくいことに価値があるのか!?」と思うようになった。
「しゅんせつ作業」で言うと、この看板を作ったのは工事を担当する土木業者である。しかし文面は役所の許可を取って作るものだ。土木業者の担当が新米の、私のような感覚の者だったとする。「しゅんせつ作業」なんて表現が気味悪く、また「しゅんせつ」ではわからない住民が多かろうと、「河川流域拡張作業」とか「河川の土砂取り出し作業」のように具体的に銘打ち、役所に届けたとする。するときっと役所は「毎年どの業者も〝しゅんせつ作業〟としているので、そう名づけろ」と言うのだろう。いわゆる慣例だ。いや役所以前に、会社の上司から「しゅんせつ作業にしろ」と言われるか。いやいやそれ以前に、業者による落札のとき、すでに「××川しゅんせつ作業」で競っているのか。また、もしも役所側に私のような感覚のものがいたとしても(いないだろうけど)、長年の慣例で表記をあらためることは否定されるのだろう。
世の中にはいろんなクレーマーがいる。「河川流域拡張作業」と銘打ったら、「どこをどう拡張するのか」「拡張作業と言いつつ一部はむしろ狭くしているのではないか」などとケチをつけてくるのがいる。なら「しゅんせつ作業」と、むずかしい漢字をひらかなで書いた、含みをもった曖昧表現にしておいたほうが多くの場面に対応できるのだ。
※
「改竄」と「捏造」も、「悪意を持って文章を直してはいません」のように口語的な直截表現をするよりも、「改ざんの事実はありません」のように堅苦しい玉虫色にしておいたほうが後々の弁明のためにもいいのだろう。
※
これらは「わかりやすい表現を、むずかしい漢字を使ってわかりにくい表現にしている例」だが、放送禁止用語のようなものは逆の流れにある。
「盲」「びっこ」を、「目の不自由なかた」「足の不自由なかた」のようにする。「盲」「びっこ」という定着している日本語を、差別的であると簡易なわかりやすい表現で置きかえている。しかし簡易な表現ではあるが、「不自由なかた」は、これまた曖昧で意味不明になっている。これを最初に思いついたひとは相当にことばに不自由なかただ。だからこれもまた「わかりやすい表現のようでいて、わかりにくい表現への置きかえ」になる。
このやりかたが、本音と建て前を使い分ける日本人らしさ、と言えばそうなのもかしれないが……。
※
私のきらいな競馬ライターに、簡単に書けることをやたらむずかしく書くのがいる。自分に自信のない臆病さを、むずかしそうなことばという甲冑で隠しているみっともないひとだ。しかし野っ原を裸で走ればすり傷だらけになる。「改ざん」や「しゅんせつ」のような何とでも逃げの聞くような便利用語をいくつか用意しているほうが生きるのには楽なのかも知れない。
- 関連記事
-
- 2014/04/09(水) 04:41:58|
- 漢字
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0