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朝日新聞は社旗を変るべし──旭日旗よりも太極旗に似た社旗を!

ワンピースの展示会中止 韓国、旭日旗図柄理由に
2014.7.10 20:09

 韓国政府が運営するソウルの「戦争記念館」で12日から予定されていた日本の人気漫画「ONE PIECE(ワンピース)」の展示会が、旭日旗に似たデザインが原作に登場することを理由に、取りやめになったことが10日分かった。

 記念館が中止を決め、主催するイベント会社への展示室貸し出しを取り消した。韓国で旭日旗は日本の「侵略の象徴」と見なされており、展示会への抗議が多く寄せられたため「不必要な騒ぎを招きかねない」と判断したと説明している。韓国のメディアによると、イベント会社側は中止決定に反発している。

 旭日旗は旧日本軍が軍旗とし、現在は陸上自衛隊が自衛隊旗に使うなどしている。韓国では最近排斥の動きが強まり、公共の場所での使用に罰則を科す内容の法案も国会に提出されている。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140710/kor14071020090007-n1.htm

---------------

 しかしこれ、私はマンガ「ワンピース」を知っているからわかるけど、産經新聞の読者には「ワンピースの展示会中止」ってなんだろう? と思ったひとも多いだろう。へんな見出しだ。



 この問題はのちに展示会開催可能とかなったようだが、私たち日本人も、誇りある旭日旗
GYOKUJITSUKI
 がこの種の問題に関わることは心外である。あいつらは日本国旗を燃やしたり踏んづけたりするのが大好きだ。下劣な民族である。



 それでまた思うのは、アサヒシンブンシャの社旗であるこれだ。
ASAHISHAKI

 国賊新聞に旭日旗に似たこれを使われるのは不快であるし、アサヒシンブンももうこの社旗のデザインにはうんざりしているのではないか。「なんでこんなデザインにしてしまったのだろう」と悔いているのではないか。社員アンケートを採ったら100%社旗を変るべしとなるだろう。なんといってもシナ様、朝鮮様を侵掠した象徴に社旗が似ているのだから、これはもう変更せねばならない。



 その場合、朝鮮様によろこんでもらえるよう
TAIKYOKUKI
 このデザインを重視するのがよかろう。もともと「報」の略の「朝日」と言われるぐらいだ。



 となるとあたらしい社旗はこんな感じか、
ASAHISHAKI2
 これぞ日本のクオリティペーパーと呼ばれるアサヒシンブンに相応しい社旗であろう。早く変更してくれ。



 社員アンケートでは、こっちのほうが人気が高いらしい(笑)。

ASAHICHINA 
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  1. 2014/08/27(水) 17:18:19|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.結──「もっているひと」はちがう──全体を振り返って

shinyatokkyu

 沢木は26歳から27歳の時期、丸一年かけてのユーラシア大陸横断の旅をした。そして、ここがこのひとの一番賢く凄い点であるが、それを10年間寝かせておいた。すぐに本にしなかった。
 業界が注目する、言葉を換えれば「咽から手が出るほど欲しい」新進気鋭のライターである。物書き業界は芸能界以上のスター主義だ。スターをひとり造りだせば、それだけで業界全体が潤う。沢木は最高のスター候補だった。それが突如仕事を一年間も休むという。何をするかと言ったらアジアからヨーロッパへの陸路放浪の旅だ。それだけでも行天だが、それをやりのけて帰国した。そりゃもう旅行ネタは山ほどあるだろう。おいしい。出版社はすぐにでもこの「旅行記」を出したかったろう。早く書けと突っついたはずだ。

 だがこのひとは書かない。出さない。自分の旅を十年間寝かせた。熟成させた。二十代半ばの旅を三十代後半になってから文にしたのである。なんとも、賢い。そのことにより、より完成度の高い、すぐれた作品となった。若者の貧乏旅という安焼酎は、十年寝かせることによって味わい深い古酒(クースー)になったのである。


 
 あの絶妙の味わいの「深夜特急」を否定するひとたちもいる。それらは総じて「きれいすぎる」と言う。たしかに。
 旅をしたのは二十代半ばのまだ青臭い沢木のはずだ。もっと生臭くなくてはいけない。なのに……。それをきれいにまとめているのは三十代後半でずっと智識も智慧も増えたおとなの沢木なのだ。

 もしも帰国してすぐに二十代の沢木が発刊したなら、きっともっと生臭いものになったろう。それは生々しく未熟で完成度は低かったかもしれないが、後々のものよりも生命力に満ちたそれはそれでよい作品になったと思われる。沢木はそうはしなかった。それは沢木の美学に反する。十年間寝かせた。
 十年間寝かせたものだから、みょうに乾いてさわやかな作品に仕上がっている。よく言われることだが、これはノンフィクションではなくフィクションとして捉えるべき作品だろう。それがこのひとの賢人である所以だ。



 そうしてあの旅の終りに、パリの空港で、キャンセル待ちをするお忍び旅行の藤圭子とめぐり逢っていたのである。それが5年後に「インタビュー」という作品に繋がる。インタビューするひと、されるひと、ふたりの距離はこのエピソードでぐっとちぢまったろう。そうして藤の自死の二ヵ月後、34年後に『流星ひとつ』の名で発刊されるのだ。なんとも「もっているひと」はすごいなと思わざるを得ない。

※ 

ryusei

 『流星ひとつ』の中で、藤は沢木の一年間の旅を「なぜそんなことをしたのか」と問う。仕事が順調なのに、敢えてそれと距離を置き、自分の居場所がなくなってしまうかも知れないのに、一年間あてのない外国を彷徨うという感覚は、藤にとって不思議であり、同時に実は理解できていることでもある。自分がやりたいけどやれないことを、平然とやりながら生きているひと、前記した関根恵子が河村季里に惚れたように、藤の中で沢木の存在が大きくなって行くのが見える。

 晩年の藤は娘の稼いだ金で世界中を贅沢旅行で歩きまわっていた。あれも若いときに出来なかった沢木的な生きかたの実践だったのではないか。そう思われてならない。

 藤の死後、34年前の原稿を元に沢木が新刊を出し、それが藤の元夫を不快にした流れは、じつに興味深いものである。



 『流星ひとつ』の感想はひとそれぞれだ。否定するひとがいるのもわかる。たしかに、藤が死んでからの発刊には狡いと思うような面もある。
 私の感想は「出してくれてありがとう」だ。 読んでよかった、読めてよかった、になる。藤圭子の背負っていたものとは比ぶべくもないので書くのも恥ずかしいが、私もまた藤と同じく権力に頭を下げることなく「別に」の姿勢で生きてきた。どこにも阿ったことはない。藤は自分と一緒に「別に」と言ってくれるスタッフがいなかったことを悔しがっていたが、私が藤のスタッフだったら、彼女と同じく「別に」である。NHKが藤を紅白から落とした、いいね、じゃもうNHKとは縁を切ろう、である。もしもそういうことがあったら、藤も私も破滅したと思うが、それはまた別問題だ。
 そういう彼女の精神を『流星ひとつ』で知りえたのは、おおきな収穫だ。「Harvest」である。いろいろと評価は分かれたようだが、私の感想の結論は「沢木さん、出してくれてありがとう」になる。これが結び。以下、附録。


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 長々と書いてきた《藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考》だが、そろそろこの辺で筆を擱きたい。
 一応最初はまとまっていたのだが、途中から分列気味になった。すこしまとめてみる。



 書きたかったこと、まず藤圭子に関しては、

・1970年の社会的現象であったこと

 だ。ひとりの新人演歌歌手の話題ではなかった。それは五木寛之さんの造語である〝怨歌〟とか、それが逆の意味で伝わっていった流れとか、北山修と毎日新聞の深夜放送に関するウソとか、自分なりに記録できたと思う。

 【芸スポ萬金譚】に《なぜか突然藤圭子の「新宿の女」が聞きたくなった》というのを書いたのは2013年の1月14日だった。この7カ月後に彼女は自死する。ふと聞きたくなる彼女の歌は、私の場合これがいちばんだ。これからもきっと「新宿の女」は思い出すたびに聞くだろう。いま旅先だが、YouTubeのそれはしっかりDownloadして持参している。

 70年は安保の年だ。義塾も一年半のストに入った。創立以来いちばん長いだろう。授業に出ていないヤツも(というか授業がないわけだが)リポートで単位がもらえたのに、そこで留年している私はえらいな(笑)。だって学校に行かなかったからそうなったことすら知らなかった。

 藤圭子が「新宿の女」でデビューする1969年に武豊が産まれている。70年は羽生善治&羽生世代だ。あの年に産まれたひとに傑物が多いのは単なる偶然なのか。



 そしてもうひとつが、

・もうひとつの流星、石坂まさを

 である。藤圭子抜きに石坂まさをは語れず、石坂まさを抜きに藤圭子は語れない。ふたりは双子の巨大な流星だった。
 当然ながら石坂さんは、藤圭子以外にも、その後も五木ひろしを始めとする大物に曲を提供し、そこそこのヒットを出しているらしい。だから演歌に詳しいひとからは、「石坂の絶頂期は藤圭子の初期の4曲、あれで燃えつきた」には手厳しい異論をもらいそうだ。でも私のイメージがそうなのだからしょうがない。假りに数字を突き付けられたとしても、あの時代を生きた私のイメージだから、それは変られるものではない。
 たとえばポール・マッカトニーを「ビートルズ時代がすべて」と言うひとがいたら、熱心なポールファンは怒るにちがいない。でもあれだけの長年の活躍と創作活動を続けながらも、ポールがビートルズ時代以上にインパクトのあるヒット曲を送り出していないのもたしかなのだ。それと同じ感覚である。

 先日これを書きつつ検索して、YouTubeで藤圭子の「新宿の女」を聞いた。どこかのテレビ番組。和服を着て歌っていた。思いっ切りメロディをくずして歌っていた。いくつぐらいだろう、三十代半ばか。もっと上か。そこには五木さんの言った〝怨歌〟なんてカケラもなかった。ただの「歌の巧いおばさん」だった。やはり石坂まさをにしても藤圭子にしても、世に出る直前の光が独自の輝きとなったのであって、リッチになったふたりが失ったものも確実にあったように思う。



『流星ひとつ』に関しては、

・沢木と藤のパリでの出会いの衝撃

 に尽きる。これって言わばふたりのサイドストーリィであり、読者の私にはまったく関係ないのだが、私はこれに衝撃を受けて『流星ひとつ』購入にいたった。しかしまあ沢木さんは「もってる」。それを明かされたとき、もう藤圭子の目はうるるんだったのではないか。待ちつづけた「白馬に乗った王子さま」はこのひとではと思ったのではないか。いやはやノックアウトされたエピソードだった。



・書き足したいくつかの音楽話


 この「藤圭子&『流星ひとつ』考」は、日本を留守にするあいだに自動アップするように設定して書いた。去年1月の「大鵬話」と同じになる。「1話を1000字にして20回連載」の体裁で書きあげた。私が日本にいないあいだ、自動でアップされる予定だった。原稿用紙換算で60枚ほどの量。それを仕上げて異国に行った。

 ところが今回の異国生活前半は幸か不幸か私には珍しくWifiが通じるオシャレな地域だった。ま、オシャレもなにも今じゃそのほうがフツーなのだろうけど、恥ずかしながら私は初体験。ThinkPadもAsus MeMO Padも快適に繋がった。それで、よせばいいのにその「20回連載」を読み返してしまった。粗だらけである。己の醜さを見て汗を掻く蝦蟇状態。あちこち言葉が足りない。力がないからが基本だが、出発前に1ヵ月以上ブログ更新が途絶えるのも数少ない固定読者に申し訳ないと急いで書いたことにも因はある。それの直しを始めた。直せば書き足したくもなる。書き足せば削りたいところも出て来る。こうなるともう泥沼の堂々巡りである。「1回1000字」なんて約束ごとはすぐに破られ、あれやこれや書き足しての混迷状態となった。結果、26回の連載で合計140枚を越している。書き足した部分のほうが多い。

「いくつかの音楽話」とは、たとえばビートルズの「Abbey Road」、ニール・ヤングの「Harvest」、由紀さおりの「生きがい」、テレサの「つぐない」のあたりである。「別れの旅」「面影平野」もそれになる。
 これからインターネットのない山奥の世界に往く。せっかくオシャレな街に来ているのに、Wifiがあったがために「ひたすら日々『藤圭子論』の修正のみの生活」を送った。斎戒沐浴して日々精進の時間だった。もっと俗事に染まるはずだったのだが。それでも私なりの「藤圭子論」と「『流星ひとつ』の感想」を書けた。これはこれで貴重な思い出になるだろう。「大鵬」の時も思ったが、「書こう」と思った波が来たときに一気に書かないとあとではもう書けないのである。書けてよかった。長長のおつき合い、感謝。(完)
  1. 2014/08/20(水) 13:52:16|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.25──私のロカ岬と「深夜特急」、テレビ版「深夜特急」

shinyatokkyu

 ポルトガルの西の外れにロカ岬がある。ユーラシア大陸最西端の岬だ。「ここに地終り、海始まる」の碑が建っている。私が初めてここを訪れたのは1991年の秋だった。島国育ちの日本人らしく、あちこち異国の端っこに行くのは好きだが(笑)、べつに大航海時代を偲んでやってきたわけでもない。沢木耕太郎の「深夜特急」に感激し、悩んだ末に彼がゴールと決めたロカ岬に、自分も行きたいと思ったのだ。「深夜特急」を読んでいなければ来るはずのない地だった。

 それでも見渡す限りの海を見れば、「地球は丸い」が定説ではなかった時代、ここから航海に旅立つのは度胸が要ったろうと感激する。丸いと知っているから丸く見えるが、あのころは海の果ては轟々と瀧になって落ちていると思われていたのだ。

 新大陸なんていいかたは、侵掠者のキリスト教信者白人から見た解釈であり、元々の住人はそこにいるのだから「新」であるはずもない。白人の征服主義、キリスト教の侵掠が世界をおかしくしたと考える私だから、「深夜特急」のゴールの地に行きたいと思わなければ、その出発点であるこの地は縁のない場所だった。


 
 沢木が藤とパリの空港で会ったのは、このユーラシア大陸横断の旅が終り、そろそろ日本に帰ろうとしていたときだったのである。なんとまあいろんな運をもっているひとであろう。しっかりそれが後に繋がっている。この旅を十年後に沢木は「深夜特急」として世に出し、高い評価を受けるのだが、それより五年前、旅の終った五年後に、しっかりとそのときの出会いであるこれをこの(未発刊ではあったが)『流星ひとつ』で役立てていたのだ。

 私が背筋をゾクッとさせたエピソードとは、この『流星ひとつ』が、あの「深夜特急」と兄弟だったことにある。「あの、ユーラシア大陸横断旅行から帰国するときに、パリで藤圭子にあっていたのか……」
 ほんとに、沢木さんてひとは「もっている」のだ。

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shinyaDVD

 脱線するが、「深夜特急」と言えば、名古屋テレビが制作しテレ朝系で放送された大沢たかお主演のものを思い出すひとも多かろう。中には原作は読んでなく、「深夜特急」とはイコールこれだというひともいるかもしれない。

 私はこの作品に興味がない。一応我慢して最後まで見たが、なんともはやつまらなかった。理由は明白、これは制作された1996年から1998年の映像だからである。それはもう私の充分に知っている〝世界〟だ。

 私にとって沢木の「深夜特急」が魅力的だったのは、彼がそれを実行した1974年ごろの世界にあり、それは自分の知らない時代の他国だった。だから興奮した。つまりテレビ版「深夜特急」の映像は、すでに世界を巡った私の知っている時代なのである。だから興味が湧かない。さらには「90年代になってからはもうアジアもつまらなくなった」と言われるようになっていた。事実その通りなのだ。その90年代も末期なのだから興味が湧くはずもない。スタッフは当時の雰囲気を出そうと、よく努力していたようだが、現実を知っているこちらからすると、なにをどうしようともそれは私の知っている90年代末期のアジアであり、沢木の旅した時代とはちがいすぎていた。
 
 しかしまた何も知らなければあれはとても良質な番組で、愉しんだひとも多かったろう。だから決して否定ではない。そこは誤解しないで欲しい。あれはああいう世界に憧れる、まだああいう世界を知らない若者には、充分刺戟的なすぐれた映像であったろう。あれをきっかけに世界に飛びだした若者も多いにちがいない。でもあれではもう興奮できない私、もまた個人的真実なのだ。 (続く)
  1. 2014/08/17(日) 13:41:14|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.24──もっている沢木耕太郎

ryusei

 パリの空港で初めて会った5年後のホテルのバー。1979年。『流星ひとつ』のインタビュー。今回が初めてではなく、前回のパーティも初めてではなく、じつはあのパリの空港のキャンセル待ちのとき世話を焼いた日本人が自分なのだと沢木は名乗り出る。
「あなたは、オレンジ色のコートを着ていました」

 次第に藤の中にも、5年前のパリの空港、おそらくお忍びのプライベート旅行だったのだろう、言葉が通じず困っていたとき、助けてくれたあの長身の日本人青年の面影が浮かんでくる。「ああ、ああ、あのとき、たしかに……」と。
 それがいま自分にロングインタビューをしている新進気鋭のノンフィクションライター沢木耕太郎なのだと知ったときの藤の昂揚感。私もまた「まったく沢木耕太郎ってひとはすごいなあ」と背筋をぞくぞくさせながら読み進んでいた。こんなことを知ったら誰でも運命を感じてしまうだろう。ふたりが恋に落ちる伏線は5 年前に張られていたのだ。


 
 しかしこのことだけを取りあげるなら、それはさほどのことではないように思う。いや充分に「さほどのこと」ではある。だって藤圭子なら、後の奇行で有名になるが、このときだってファーストクラスは可能だったろう。それがなぜあのロシアの、評判最悪のアエロフロートなのだ(笑)。極貧旅行の沢木はともかくも。そういう意味では、ふたりを出会わせるように神様がセッティングしていた、とも言える。だからまあこれだけで充分に劇的な出会いではあるのだが、私が「まったく沢木さんてのはもってるひとだよなあ」と感激したのにはもうひとつの理由がある。



 横浜国大を卒業してノンフィクションライターを志した沢木は、26歳ですでに「若き実力者たち」「敗れざる者たち」と高評価の二冊のノンフィクションを出していた。私は「若き」には将棋の中原さんが、「敗れざる」には競馬のイシノヒカルが登場するのでともに読んでいた。順風満帆な沢木はあまりに順風過ぎる故に、敢えて一度休憩を取る。ここが沢木耕太郎の沢木耕太郎たるゆえんだ。なんともかっこいい。賢い。そしてユーラシア大陸横断の旅に出る。26歳から27歳にかけての一年間だ。その旅もまた大きな自分の功績とする。(続く)
  1. 2014/08/16(土) 13:38:21|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.23──沢木耕太郎、藤圭子、パリでの初めての出会い

ryusei

 『流星ひとつ』を立ち読みしていた私が思わず背筋をゾクっとさせたのはふたりの出会いの箇所だった。
 インタビュー開始の時、「はじめまして」と藤が言い、沢木が「はじめてじゃないんですよ」と応じる。すぐに藤が「あ、先日のパーティで会ってるもの、初めてじゃないよね」と返すが、沢木は「いや、その前に会っているんです」と言う。


 
 インタビューする1979年から5年前のパリ。一年間の放浪の旅を終え、帰国しようとする沢木はアエロフロートのキャンセル待ちでパリの空港にいる。いくら安売りチケットとはいえ「他人名義」というとんでもないシロモノである。当時はそれが出来たらしい。パスポートチェックが無事に済めば、他人の名前の航空券でもチェックインできたらしいのだ。信じがたい(笑)。さすがの沢木も、「これでほんとに搭乗できるのか」と半信半疑でキャンセルを待っている。

 そこに三人の日本人がやってくる。中年の男性と娘ふたり。ひとりは日本人形のように整った容姿、肌がきれいだ。もうひとりのむすめもとてもかわいい。ひさしく外国を流離っていた沢木は、久々に見る日本人娘のきれいさに感激する。
 
 沢木も三人組もキャンセル待ちの状態である。だがその三人組は、ことばが通じず、待たねばならない現状が理解できないようだ。沢木はでしゃばりと思いつつも、同じ日本人として、日本語でそれを三人に説明してやる。三人もやっと納得する。



 その後のアエロフロートのキャンセル待ち搭乗は、沢木までで打ちきりとなる。沢木は乗れない三人を気にしながらも機上のひととなる。そうなってから、さっきの人形のようにきれいだった娘は歌手の藤圭子じゃないかと気づく。一年間日本を離れていたが、なぜあの大スターの藤圭子に気づかなかったのだろうと不思議に思う。
 パリの空港。藤圭子23歳、沢木耕太郎26歳、これがふたりの初の出会いである。(続く)
  1. 2014/08/14(木) 13:17:55|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.22──沢木の『流星ひとつ』を買うひと、とは

ryusei

 多摩センターの啓文堂で『流星ひとつ』を立ち読みしているとき、私に購入の意欲はなかった。沢木の新刊だし、そのうち図書館にはいるだろう。そうしたら借りて読んでみよう。それぐらいの気持ちだった。買うなら文庫本になってからでもいい。それだけ私の中でも藤圭子は過去のひとだったことになる。沢木耕太郎もまた全作品を読んでいるけれど、かといって新刊が出たらすぐに買う、というほどのファンでもない。ただ、どんな作品も、絶対に無視できないすばらしい作家ではあるけれど。
 
 ところが立ち読みで〝とんでもないエピソード〟を知り、思わず背筋がゾクっとするほどの興奮を覚えた。私は迷わず本を手にしてレジへと進んでいた。


 
 電車の中でも読み進め、インタビュー構成という読みやすいものだから、その日のうちに読了したのだが、ブログに感想を書く気はなかった。話題の芸能ネタであるし、作者は人気の沢木耕太郎である。ベストセラーとなり、そこいら中に感想があふれると思っていた。
 
 ところがそうでもなかった。さほど売れなかった。それほど藤圭子は過去の人なのだろう。テレビのワイドショーではどうだったのだろう。藤が死んだときには日本にいなかったでテレビは見られなかった。ワイドショーでは、この本を取りあげて、ふたりの恋愛関係にも触れ、テーマとしたりしたのだろうか。いまその種のテレビをまったく見ないのでわからない。



 過去のひとである藤圭子の1979年、34年前のインタビューを読みたいと、この本を購入するのはどんなひとだろう。
 まず「誰がなんと言おうと藤圭子こそ最高の演歌歌手。大好きだ、最高だ」という演歌ファンは、沢木のこんな本は読まない。こんなものを買う習慣がない。彼らは日夜自殺してしまった彼女の歌を聴き、一緒に歌って鎮魂する。

 演歌歌手・藤圭子のファンが買わないとしたら、誰が買うのか。購入者として考えられるのは、一般読者からマスコミ人にまでコアなファンを多数持つ沢木耕太郎だから、「沢木さんの本は全部好き。全部買う」というひとたちだろう。この本を支えたのは「藤圭子ファン」よりも、こういう「沢木耕太郎ファン」だろう。いわば「本好き」のひとたちである。



 ではそれらとはまた別の、フツーのひとで、この本を買うのはどんなひとだろう。と考えて、自分が典型的なそれであることに気づく。

 すなわち、1970年の「藤圭子現象」を知っている世代、ヒット曲だけではなく、社会現象としてのそれを体験していて、そこに思い入れをもっている人々、である。「五木寛之の造語の〝怨歌〟」なんてのを知っているのも一条件となる。
 それがどれくらいいるのかわからないが、ベストセラーにならなかったことを思うと、さほどの数でもないのだろう。いや、購入者の数よりももっともっといると私は思っている。でも私が彼女の死を知ったとき、感想というか当時の思い出を書こうと思いつつも、「ま、それぞれが心の中にもっていればいいことか」と諦めたように、本屋でこの本を目にしつつも、あるいは一度は手にしながらも、「あの当時の藤圭子の思い出はオレの心にあればいい」と購入しなかったひとも多いように思う。

 私も前記の〝とんでもないエピソード〟がなければ、すこし立ち読みして、懐かしいような物悲しい想いにとらわれた後、、「自分の心の中にあれば、それでいい」と、購入もしなければ、こうしてブログに書くこともなかった。



 世間ではどんな評判なのかとAmazonのブックレビューを読んでみた。みなとてもよく書けていて、上手な文も多いのだが、なんとも悲しいことに、それはみな「宇多田ヒカルのファン」なのだ。藤圭子は彼女の母親でしかない。もちろん当時の輝きなど知りはしない。これはいくらなんでも悲しい。藤圭子の死は藤圭子の死、なのだ。「宇多田ヒカルの母親の死」よりも前に「藤圭子の死」でなくてはならない。そのとき、遅ればせながら私なりに藤圭子を偲ぼうと思った。(続く)
  1. 2014/08/13(水) 13:16:46|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.21──いま発刊する理由、元夫と実娘の想い、もうひとつのif

ryusei

 34年間伏せてきた作品を、なぜ今ごろ、藤圭子の自殺のあとに緊急出版することにしたのか。「葬式商売」「ひとの不幸で儲ける」との批難は避けられまい。それは完全主義でありデビュー以来爽やか路線を貫いている沢木耕太郎には似合わない。そう言われることを承知でなぜ出版に踏みきったのか。
 沢木はその理由に「後記」の中で触れている。とてもよくわかる理由だったが、同時にある種の確執も生むのではないかと気になった。結果、その通りになる。



 沢木は封印していたインタビュー構成の本──1979年にしたインタビューを2013年に発刊だから34年ぶり──をいま発刊する理由として、藤の自殺後の元夫・宇多田と実娘ヒカルの発言をあげていた。元亭主と娘は藤圭子の死を「長年精神を病んだ末に死んだ」としていた。今までの苦労もいくつか披露していた。それは事実だろう。一緒に暮らしていたふたりの話である。夫と娘の話なのだ。藤のいくつもの奇行からも彼女が精神を病んでいたことは推し量れる。その病の果ての自死だった。
 
 それに対して沢木は、「元夫と娘により、そう片づけられてしまっては気の毒だ。そうではない時代の藤圭子を伝えたいと発刊の決意をした」と言う。これはこれで意義がある。だが他人からそう言われたら、元夫と実娘が愉快のはずはない。なにしろ「6回の結婚離婚を繰り返した仲」なのだ。



 なぜこの時期に『流星ひとつ』を出したかの理由について、沢木は
インターネット上の動画では、藤圭子のかつての美しい容姿や歌声を見たり聴いたりすることができるかもしれない
 とした上で、「だが」と続ける。

彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、1枚のスナップ写真になっているように思える
 とし、娘宇多田ヒカルが、この本を読むことによって初めての藤圭子に出逢えるのではないかと結んでいる。(太字は沢木のことば、そのまま。)
 
 私もそう思う。宇多田ヒカルは、精神を病む前の母親の、権力に媚びない、実にかっこいい精神を見て、我が母に惚れなおすことだろう。ここにある藤の姿はヒカルが生まれる前の、知らない時代の輝きだ。
 
 だがこれは元夫・宇多田に元恋人・沢木がケンカを売ったことにもなる。「アンタは藤圭子は精神を病んで自死したと言っているが、おれはアンタが出会う前の、最高に輝いていた藤圭子を知っている」と言っているのだ。それを本にしているのだ。しかも「元恋人」が。

 藤は、デビューした頃が40キロ、その後は沢木とのインタビューのころの28歳時でもずっと36キロというか細い躯である。私は、藤の肉体にデビューのころから興味はなく、よからぬ妄想を抱いたことすらないが、すくなくともそれを沢木は宇多田よりも前に知っている。その男の、いまになってのこの発言は、元亭主にとって気分のいいものであるはずがない。
 沢木はこの本を宇多田に贈ったらしい。宇多田がそのことにツイッターで触れ、批難しているのも当然の流れだった。



 藤圭子の自殺、親族だけによる葬儀、そして毎度あの一家では定番なのだが、波風を立てる藤の実兄の発言、それに反撥する宇多田父娘の発言、藤の死後、あいかわらずのニュースが続いたようだ。(私はそれらに興味を持って追ったわけではないが、海外から帰国後ネットで調べてそれなりに知った。)
 精神が不安定で、奇行が続き、結果的に年下の男性と同棲していた新宿のマンションから飛降り自殺、という藤圭子の結末は、なんともかなしいけれど、彼女の最後らしいとも思っていた。
 
 しかしそれだけで片づけられ、忘れ去られて行くとしたら、あまりに気の毒だ、自分の知っている藤圭子の透明な精神を伝えたい、という沢木の気持ちもわかる。私はこの本を読んで良かった、よくぞ出してくれた、と思っている。あの衝撃のデビューのころを思い出し懐かしんだ。いい本だと思う。しかしまた家族の「おまえなんぞになにがわかるんだ!」「今更でしゃばるな!」の気持ちも解る。



 そしてまたifとして、あのとき約束通り沢木がアメリカに行き、ふたりが一緒になったなら、藤にはまったく別の人生が展開した、精神を病むことにもならなかったかもしれない。いや、関根と河村が破綻したように、藤と沢木も長続きしなかったかも知れない。どんな道をたどっても、けっきょくは藤は宇多田と出会いヒカルを産んだのかも知れない。

 元夫が藤と沢木のことをどこまで知っているか(=藤がどこまでしゃべったか)知らないが、心の奥底には「おまえだけには言われたくない」のような気持ちもあったのではないか。(続く)
  1. 2014/08/11(月) 13:11:57|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.20──l『流星ひとつ』と出会った多摩センター

ryusei

 私が『流星ひとつ』という沢木耕太郎の本を目にしたのは、初めて行った京王多摩センターという駅の本屋だった。啓文堂。2013年10月10日午後1時。藤圭子の自殺から二ヵ月ちかく経っている。
 
 多摩センターというのは奇妙な街で、駅前のあたりを歩いていると、まるでゲーム「SimCity」の一員になったかのような錯角を覚えた。もともとそういう理想の街を夢見て、なにもない地に未来的に開発されたものなのだろう。定木で引いた直線で作ったような人工物。あのときの奇妙な感覚はいまも覚えている。開発されたのはもうだいぶ前のようだし、長年あそこに住んでいるひとは、こんなことを言われても困るだろうが、私が初めて訪れたこの駅前で、SimCityの一員になったような錯覚で目眩がしたのは事実である。私にはとても住めない町だ。



 翌日、今度は板橋の大山というところを訪ねた。こちらも初めての町である。こちらは対象的に、細い路地がうねり、ごみごみした感じの、江戸時代の宿場町、女郎町として栄えた板橋宿の雰囲気がいまも残るようなところだった。ほっとする。ここなら住んでみたい。すこし住んだらすぐに馴染みの居酒屋が二、三軒出来るような親しみやすい感じを受けた。

 『流星ひとつ』を、その奇妙な感じを受けた多摩センターで買ったというのは私の中でワンパックになっている。藤圭子を、『流星ひとつ』を思い出すたび、「あの奇妙な街、多摩センターで買った」と思い出すことだろう。

※ 

「おっ、沢木の新作だ。藤圭子の本か」と立ち読みを始めた。まずはあとがきを読み、それが三十年以上前のインタビューであることを知る。今まで刊行されてない沢木の数少ない作品である。何年か前「沢木耕太郎全集」発刊時に初収録をしようかと思い、許可を得るために世界のどこかにいるはずの藤圭子の連絡先を探しまくったが見つからず、断念したと書いてあった。(続く)
  1. 2014/08/10(日) 13:09:19|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑲──「河村季里と関根恵子の逃亡劇」の影響??

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 『流星ひとつ』を読んでいると、育ちも、今まで歩んできた経歴も、すべてが異なる沢木と藤が、たがいにあまりにちがうからこそ、ことばを交しつつ、次第に惹かれあって行く様子がびんびんと伝わってくる。それを読みつつ「河村季里と関根恵子」を思い出した。

 あのころ雑誌「GORO」で作家・河村が女優との対談をやっていた。河村が人気女優に真正面から露骨なほどに性体験と、その現場を問う。女優もそういうものと承諾しての出演だから、腹をくくってペッドでの自分を赤裸々に語る。なかなかに刺戟的な人気企画だった。
 そのうちのひとりの関根と河村は恋仲になり、ふたりは岐阜の山奥で隠遁生活を始める。その暮らしは二年間ほどで破綻する。いや文明と縁を切ったかのような二年は充分に長かったと思う。
 だが芸能界に復帰した関根は、またしても主演の舞台を、開幕前夜に抛りだして行方不明となる。後に海外に逃亡したとわかる。同行した男は別れたはずの河村だった。当時、大きな話題となった。



 あのときの対談の雰囲気が『流星ひとつ』の沢木と藤に似ている。

 関根は北海道の田舎育ちで美貌の無学な娘である。15歳のとき映画「高校生ブルース」で主演デビュー。いきなりヌードになったことも話題になった。河村と対談したときは21歳ぐらいか。その前に「初体験は小学校6年」と発言していたが、この時の対談でそれが強姦であったことを告白している。立て続けにヌードになり奔放な女優と言われていた。いろいろと自分のありかたに悩んでいたらしい。
 河村は知的な作家(作品を読んだことがないので知らないけど)であり、博識な年上の男性である。32歳。

 互いに自分にはないものに惹かれあう。あのとき関根は河村に自分を導いてくれる光を見たであろうし、河村は光り輝く珠を掌中にした気分だったろう。そして突如芸能界を引退しての山中での隠遁生活。
 二年間のそれは、「関根の河村からの卒業」という形で幕を下ろす。

 河村と別れた関根は芸能界復帰する。まずは舞台に起用された。なのに主演舞台初日前日に失踪する。ひさしぶりの芸能界復帰、初の主演舞台の重圧にパニックになったのは解るとしても、こんなことをされたらたまらない。関係者、競演者は途方に暮れたろう。後にふたりはタイのバンコクに潜伏しているのをマスコミに発見される。まともなら芸能生命は終りだろう。
 しかし芸能界というのはそれを許してくれる。やがて関根はまた復帰し、出演作で知りあった高橋伴明監督と結婚する。ふたりのあいだに出来た娘は子供を産み、関根(現高橋)にはもう孫がいるというから、私はいまずいぶんと旧い話を書いていることになる。


 
 同じような形で、関根に似た環境に育ち、同じく好き放題のことをマスコミに伝えられながらもじっと耐えてきた藤28歳が、今まで出会ったことのない知的な男性として、沢木31歳に惹かれてゆく感覚が、『流星ひとつ』から、染みこむように伝わってくる。



 私は、関根の舞台放棄、河村とのタイ逃亡劇を伝えるマスコミ情報をリアルタイムで見聞した。当時、週刊誌やテレビの芸能ニュースも大騒ぎしていた。かといって今、詳細な時期まで覚えているわけでもない。今回確認して驚いた。この沢木の藤圭子インタビューがなされたのと同じ*1979年なのである。

 取材者と取材対象者の枠を越え恋愛関係に陥った藤と沢木は、先に藤がアメリカに行き、あとから沢木が追って、アメリカで落ちあうはずだった。しかし心変わりした沢木が渡米をやめ、アメリカにいる藤は梯子を外された状態になった、というのがふたりの「恋愛の顚末」として今も伝わる話だ。そして傷心の藤が知りあうのが宇多田だと……。

 沢木が翻意する理由に、「関根恵子の逃亡劇」は関係あっただろうか。
 当時の沢木は最高の伸びしろを期待され刮目されるノンフィクションライターとはいえ、まだまだ若手である。一方の藤は、何のかんの言おうと芸能的にはスターだ。衝撃のデビュー、社会的話題となったあのころから十年が経っている。しかも突然の引退で注目されている。もしもふたりのそれが実行されたなら、「引退した藤圭子は、アメリカで新進気鋭のノンフィクションライターと同棲中」と週刊誌やテレビの恰好の話題となったろう。この時点でテレビを見る多くの視聴者は沢木耕太郎なんて知らない。扱いは「関根恵子と河村季里」と同じである。そんなことをあの誇り高い沢木が受けいれるはずがない。

 河村季里・関根恵子の「愛の逃亡劇」と、スキャンダラスにそれを伝える芸能マスコミを見て、沢木が冷静になり、藤との恋愛をあきらめた、という解釈はなりたつだろうか。(続く)

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【追記】──*1979年について

  この文は最初「GOROで対談した関根と河村が恋仲になり、舞台を抛りだした関根がタイに逃亡したのが1979年」と書いた。しかしどうも心の奥の記憶がすこしちがうぞと囁いてくる。私の記憶では、《GOROで知りあった関根恵子と河村季里は、長野だか岐阜だかの山奥で文明とは懸け離れた生活を、2年か3年した後、それが破綻してふたりは別れる。関根は芸能界に復帰する。しかしそれがうまく行かず、またも仕事を抛りだして行方不明になる。関根と一緒に逃避行した男は誰かと思ったら完全に切れたはずの河村だった。しばらく後、タイのバンコクに隠れているところを芸能マスコミに見つかる。》となる。

 いろいろ調べてみたが、郄橋恵子が「河村季里」という名を自分史から消してしまっているので判りづらい。数年前、東スポに連載した自伝(語りを記者が構成したもの)でも、岐阜の山奥での生活は、自分ひとりでしたかのようになっていた。ここまで完全に存在を消されてしまうと河村が気の毒になる。でもそんなものか、世の中。
 とりあえず「1977年から79年まで岐阜県の山奥で晴耕雨読の日々を送っていた」とわかる。私にとってスキャンダラスなのはこっちだった。「関根恵子事件」というものがあるとすると、私には、「舞台放棄事件」よりも、突如引退して山奥隠遁生活を始めた1977年になる。

 79年に芸能界に復帰したが、またも舞台をすっぽかしていなくなる。後に発見されたのはタイだった。どうやら私の記憶にまちがいはないようだ。最初に書いたように「愛の逃避行」を1979 年にすると、山奥での隠遁生活はその後になってしまうのだが、そうではない。77年からふたりは岐阜県でそれをしていた。79年のそれはその後の話である。

 いずれにせよ沢木は、1979年の芸能スキャンダルであった「関根と河村のバンコク逃避行」も、その前の1977年の「対談をきっかけにして親しくなり、突如引退、山奥での隠遁生活」も知っていただろう。スキャンダラスに報じられたそれが藤と沢木の恋愛に多少は影響したであろうか、という話だから、年代はこれでいいことにする。 以上、すこし気になったので追記した。

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【補記】──つい先日、この当時の「GORO」で沢木も仕事をしていたと知る。となると、齢の近い同業者の河村と親しかった可能性もあるし、上の文を書いたとき私は、《沢木は「関根・河村事件」を芸能事件として、それなりに知っていたのではないか?》と推測したのだが、当時の「GORO」の執筆者だったのだから、もっと身近な事件だったことになる。それがふたりの破綻の原因かどうかはともかく、「関根・河村事件」を沢木が意識したのはまちがいないだろう。(2015/1/6)
  1. 2014/08/09(土) 13:08:11|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑱──沢尻エリカのふてくされた「別に」と、藤圭子の肝の据わった「別に」

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 このインタビューは、沢木が若かったのか、それとも意図的なのか、かなり彼の青い部分が出ている。たとえば「お金なんかいらない。お金なんかなくても暮らして行ける。あったらじゃまだ」のような乱暴な意見を沢木がいい、金銭で苦労してきた藤が生真面目に、「そんなことないよ、お金は大事だよ、お金はあったほうがいいよ」と応えたりしている。

 藤はこどものころ生活保護を受けていたことを言い、まったくお金がなかったから、祭りの後の寺社に出かけ、5円玉10円玉を拾えたよろこびを語っている。藤は28歳のこのころ、ろくでもない男に貢いでしまう自分、なんでもひとにあげてしまうことを語っている。「新宿の女」でデビューした頃はまだ処女であり、その歌の中身とは無縁だったが、21で前川と離婚してからは、もろに「新宿の女」の歌詞そのものの恋愛をしていることを吐露している。

※ 

 仕事に関しても、沢木のほうが保守的な意見を言う。藤は「紅白歌合戦に落選した。おおいにけっこう。NHKは自分を必要ないと拒んだ」と解釈する。だから藤は「もうNHKには一切出るのをやめよう」と思うのである。ところがプロダクションの社長やマネージャーは「とんでもない」となる。なんとかまたNHKに出させてもらおうと頭を下げるのだ。そんな連中を藤はくだらないと思う。もしもそのとき賛同して、一緒に行動してくれるスタッフだったなら、自分の芸能人生もちがう展開になったはずと。

 藤の一本気な意見に、沢木が「NHKに出られなくなってもいいの?」と問う。その種の問いに藤が連発するのが「別に」なのだ。ここで沢木から「まったく、女にしておくのは惜しいほど男っぽい」という讃歌が出る。


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 「別に」と言えば近年では沢尻エリカである。しかしその30年以上前に「別に」の元祖がいたことになる。
 沢尻の「別に」は、映画「クローズドノート」の公開の場で出たものだった。司会者から感想を問われる。立場上そつなく受け答えすべき場なのに、そっけなく「別に」と応えたことから紛糾したのだった。

 沢尻はあの噴飯物の朝鮮映画『パッチギ』の、「かわいい朝鮮娘役」で名を成した。しかしまあよくもあの役に沢尻を起用する。きれいすぎる。あれは若作りした柳美里に制服を着せればいい(笑)。容姿的にもそのほうが適役だ。

 沢尻は、美貌のヒロインとしてすでにいくつもの作品に出ていたが、それなりの大作?の本格的主演はこれが初めてだったのだろう。今回調べて、私がレンタルヴィデオで見た「間宮兄弟」にも出ていたと知る。そうだったか。うん、出ていたな、そういえば。
 これは「パッチギ」で名を売った沢尻の勝負作だった。いかにもな芸能人なら、試写会の場で、涙を流して感激せねばならない。なのに「別に」だったから問題となった(笑)。
 その後一転して涙を流して謝ったりしている。だったら最初からやるな。いずれにせよガキのふて腐れの領域を出ていない。でも彼女もまた藤圭子に通じる「芸能界の体質と合わないひと」ではあるのだろう。



 藤圭子話とは関係ないが、この「クローズドノート」ってのはひどい映画だった。当時、あまりに腹立ったので怒りの感想文を書き始めたのだが、くだらんことにエネルギーを使うのはよそうとやめた。これがろくでもない映画だという持論を引っこめるつもりはないが、といってそれは沢尻の責任ではない。沢尻も竹内もきれいだった。満点だ。京都の町並みも美しい。その辺に問題はない。根本的な疑問は、そもそもこの物語が成立しているのか、ということにある。なんともアホらしい映画だった。原作はどうなのだろう。まともなのか。読んでいない。
 沢尻の作品ならこのあとの「ヘルタースケルター」のほうがずっといい。マンガのイメージをよく出している。


 
ryusei

 沢尻のそれと比すと藤の「別に」は肝が据わっている。
 藤が「別に」と応えるのはすべて前記のような他者との関わりの場面だ。藤は一歌手として素朴に歌って行ければいいと思っている。人気を得るために高視聴率のテレビ番組に出たいとは思っていない。大権威のNHKに阿る気もない。芸能雑誌に媚びを売る気もない。ドサ周りの演歌歌手として、そこそこ食える程度のものがもらえて、好きな歌が歌えればそれでいいのだ。マスコミの寵児でいたいと思っていない。マスコミなど信じていない。関わりたくない。ウソばかり書かれてきた。これからもウソばかり書いていろと突き放している。沢木が「そこまで言ってしまっていいのか」と心配するほどだ。

 このインタビューでは、沢木のほうが俗物に成り切り、上手にその藤の侠気を引き出している。
「芸能界を引退してだいじょうぶなの、お金入らなくなっちゃうよ?」
「NHKとケンカしてだいじょうぶなの、NHKに出るってすごく価値があるんじゃないの?」
「週刊誌を冷たく突き放してだいじょうぶなの、機嫌をとっておいたほうがいいんじゃないの?」
 俗的な心配をする沢木に、藤が連発するのが「別に」なのだ。「また出たね、得意の『別に』が」と沢木が苦笑する感覚でインタビューは進展して行く。

 それら、会話のあいまから、沢木が「女にしておくのはもったいない」と感嘆するほど筋の通った考えの一本気な藤に、次第に惹かれて行く様子もまたくっきりと見えてくる。(続く)
  1. 2014/08/08(金) 13:06:39|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑰──引退後、勉強したいと願う藤圭子

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 『流星ひとつ』の構成は、「沢木耕太郎が藤圭子にインタビュー」というよりも、ホテルのバーで酒を飲みつつ、ふたりの自然な会話のような形で進行する。そんな中、藤圭子が連発する「別に」が新鮮だ。

 沢木がこのインタビューを思いついたのは「なぜいま藤圭子が芸能界を完全引退する必要があるのか!?」という素朴な疑問からだった。藤はしばらくかつてのような大ヒット曲は出していないが、演歌歌手としては安定期であり、いわばいちばんオイシイ時期である。『流星ひとつ』でも28歳のいま、年収が5千万であることを明かしている。その環境を捨て、なぜそれほどに引退を急ぐのか!?



 そのしばらく前に沢木は藤と〝初対面〟している。藤と面識のある友人に頼み、パーティ会場でことばを交わしているのだ。そのとき藤は「引退しようと思っている」とつぶやいた。

 しばらく後に、テレビでの引退会見となる。それを見て沢木はインタビューを申しこむ。インタビュー嫌いの藤だったが、受けいれられて実現した。



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 この時点で藤は、今までさんざん経験してきた、毎回同じ事を聞いてくるインタビューというもののつまらなさ、あらかじめ結論を出していて、そこに誘導しようとする芸能マスコミのくだらない構成に呆れはてている。なのに沢木の申しこみを受け、沢木の著書「敗れざる者たち」を読んでその場に臨むのだから、互いに惹かれあうものが初対面の時からあったのだろう。読んできたことを藤が言うと、読んでくれたんだと沢木もうれしそうに反応している。最初から気が合ったのである。

 引退して、これからやりたいことを問うと、藤は「笑わない?」と確認してから、「勉強したいんだ」と語っている。アメリカに渡って英語を学びたいと。「遅いかな?」に、「そんなことはない」と沢木は励ます。

 藤は学校の勉強が出来たという。父母の手伝いでどさ回りをし、出席もままならなかったが、成績は4と5ばかり、3を取ったことはないと語っている。勉強が出来たのに進学できなかった彼女にとって、あらためて勉強したいというのはあたらしい世界への希望だったのだろう。そしてまた心底うんざりしていた日本の芸能界、マスコミと縁を切るために、アメリカを選んだのも自然だった。 (続く)
  1. 2014/08/07(木) 12:51:12|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑯─沢木耕太郎と藤圭子の恋愛

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 単行本「流星ひとつ」の構成は、ホテルのバーでの一夜インタビューのようになっている。ウオトカのソーダ割を飲みつつ、章タイトルを「火酒」とし、「1杯目(第1章)」「2杯目(第2章)」と進んで行く。インタビューは一夜限りのようになっている。むろん叮嚀な仕事をする沢木がそんな雑なことをするはずがない。そういう体裁、構成を取っただけで、実際には場所を変えつつ、長い時間を掛けて、何度もインタビューされて仕上げられたものだ。

 その何度かのインタビューというふたりだけの時間に、沢木と藤は恋愛関係に陥る。引退した藤がアメリカに渡ったのは、あとから沢木が来ることになっており、それを待っていたからだ。だが土壇場で沢木は心変わりし、渡米しなかった。
 傷心の藤は、後に宇多田と出会い結婚、娘ヒカルが生まれて、というのは長いあいだ囁かれている話である。



 今回この「流星ひとつ」を出したことにより、その話題は再燃した。沢木に確かめようとしたマスコミ人もいた。沢木は「当時お互いに惹かれあったのは事実」とまでは認めつつ、「でも恋愛関係(=肉体関係)にはなかった」のようなコメントを出している。
 
 その真偽を探る必要はない。それはこの「流星ひとつ」を読めばわかる。今回の出版に当たり、なにしろあの完全主義者の沢木耕太郎であるからして、原稿には相当に手を入れ、それらの痕跡は隠したろう。
「たった一冊の本」をアメリカの藤に送ったとき、それを読んだ藤が「あのあとがき、大好きです」と返事を寄こしたと、そのことには触れながらも、肝腎の当時のあとがきは、紛失したとして出していない。巧みとも言えるし、狡猾とも言える。

 この本が出た頃、それは卑怯だ、狡いと批難したブログ文を読んだ。たしかに肝腎のそこから逃げてしまっているのはずるい。といって正面切って出すことも出来まい。
 しかしそれでもここには「互いに出会ったことのないタイプ」として、もろに惹かれあう男女の息吹が色濃く漂っている。それで十分ではないか。新進気鋭のノンフィクションライターのインタビュアーとインタビューされる引退間近の芸能人、ではなく、互いに人生を語る恋人同士であることが、びんびんと伝わってくる。マスコミというものを信じず、芸能週刊誌にさんざんウソばかり書かれてきた藤が、「こんなひともいるんだ!」と沢木に惹かれてゆく様子が、沢木がまた、芸能界という特殊な世界なのに「こんな透明な感性をもったひともいるんだ!」と惹かれて行く様子が、痛いほどに伝わってくる。思わず、「おいおい、熱々だねご両人」と、グラス片手に見つめあっているふたりに嫉妬して茶々を入れたくなるほどだ。(続く)
  1. 2014/08/06(水) 12:48:56|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑮──出来上がった『インタビュー=流星ひとつ』が発刊されなかった理由

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 藤圭子の突然の引退表明を知った沢木耕太郎はロングインタビューを申しこみ、受けいれられる。
 沢木が常に考えていたことはノンフィクションにおける「独自の方法」である。藤に対するこれは「インタビューだけ」で構成し、タイトルもそのまま「インタビュー」とする予定だったとか。つまりこの時点で──それはプロとして当然であるが──沢木は引退表明した藤に興味を持ちつつも、同時に自分のあたらしい手法への実験も強く意識していたことになる。しかし時と場を変えつつ、彼女に何度もインタビューしている内に、引退の決意の変らない藤の決意、「女にしておくのはもったいない」とまで感嘆する藤の侠気と潔癖さに、『流星ひとつ』というタイトルを思いつく。


 
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 このとき沢木は31歳、藤28歳。それまで沢木はもうすぐ新聞連載が始まる「一瞬の夏」(私小説+ノンフィクション=私ノンフィクションと呼ばれた、あのボクサー・カシアス内藤との話ですね)を、連載開始前に完全に完成させてしまおうと全力投球していた。しかしすでに体験済みの話である「一瞬の夏」よりも、これからの話である藤との対談をまとめることに夢中になり、それを抛りだして、この「インタビュー」を仕上げようとする。

 500枚を超えるそれは完成した。発刊準備OKである。が、「ここまで芸能界及び芸能マスコミを批判しているこの本を出したら、彼女が復帰するときの障害になるのではないか」と沢木は、「藤のもしかしたらの芸能界復帰」を懸念して出版を断念する。それほどここで藤は、芸能界の体質、芸能マスコミのどうしようもない下衆な部分を厳しく批判している。



 一冊だけ作ってアメリカに渡った藤に送った。そしてこのインタビュー構成の作品は、2013年10月という藤の死の二ヵ月後まで34年間眠ることになる。沢木の唯一の未刊行作品である。実際に藤は、二年後に芸能界に復帰したから、藤が芸能界や芸能マスコミに対して厳しい意見を言っているこの本が出なかったことは、復帰のためには役だったろう。

 いま読んでも、じつに手厳しく芸能界、芸能マスコミを批判している。そしてまた藤の発言を支持する気持ちになる。それほどこの世界はいいかげんだ。私は週刊誌の記事のつくりかたにうんざりした。
 しかしそこまで批判しながら、藤はこのわずか二年後には芸能界に復帰するのだ。もしも『流星ひとつ』が発刊されていたら、藤の復帰は難しかったろうし、よりひどいバッシングを受けたろう。しかしまた、発刊されていたら、沢木との恋愛が成就していたなら、藤は芸能界になど復帰しなかったかも知れない。



 さて、沢木がこれを発刊しなかったのは、もしかして復帰するときのために、という「藤圭子のため」だけだろうか!?
 ふたりの恋愛は成就しなかった。沢木が藤を追ってアメリカに行かなかったからだ。約束を反故にした。
 沢木がこの本を出さなかったのは、「藤圭子のため」以上に、「沢木耕太郎のため」ではないのか。

 数年前、沢木は初めて出される自身の「全集」にこれを収録しようと思った。藤から了解をもらおうと探したが外国を放浪している藤が捕まらず断念した、という。これも「もう今ならこれを活字にしても、沢木耕太郎ブランドが傷つくことはない」という判断からだったのではないか。藤と沢木の恋愛はもう遠い過去の話だ。藤は母として宇多田ヒカルという傑物を送り出し、沢木も家庭を築きノンフィクションの雄として聳え立っている。今ならこれを世に出しても、藤も沢木も傷つかない、そういう判断での「全集収録」ではなかったか。



「なぜ今!?」と問われる34年後の出版を、沢木は、「流星ひとつ」の後記で、精神を病んで自死した藤の、病んでいない時代、透明な精神の時期を、藤のファンに、とりわけ娘の宇多田ヒカルに知らせたかった、と主張している。

 しかしそれはあまりに都合のいいキレイゴトではないかと、死後タイミングよく発売されたこの本に対する批判も生じる。ノンフィクション界の雄である沢木と、自死してしまった、かつて格別の光を放った演歌界のスターのインタビュー構成の本だけであるなら、そんな批判は生じなかった。だがふたりは、このインタビューをきっかけに恋人同士になっていた。それは誰もが知っていたことである。そのことに一切触れず、「透明な精神の時期を知らせたい」では、いくらなんでも、となる。ずるいという批判は当然のごとく起きた。 (続く)
  1. 2014/08/05(火) 23:00:41|
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朝日新聞が慰安婦問題で一部反省──朝鮮が破滅する日

産経新聞 2014年08月05日10時29分
 
朝日新聞が慰安婦問題で一部反省、吉田証言「虚偽と判断し記事取り消します」

 朝日新聞は5日付朝刊1面と16~17面で慰安婦問題の特集を組んだ。

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 1面記事では「私たちは元慰安婦の証言や数少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことが分かりました。問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します」と書き、これまでの慰安婦報道での誤報を一部認めた。

 朝日が16回も取り上げた自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の「慰安婦を強制連行した」との証言については「虚偽だと判断し、記事を取り消します」とした。

 また、もともと関係のない慰安婦と工場などに動員された女子挺身隊とを繰り返し混同した記事を掲載したことに関しては、「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました」と間違いを認めた。

 一方、元韓国人慰安婦、金学順氏の証言記事で、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」などと実際の金氏の経験と異なる内容を書き、慰安婦問題に火をつけた植村隆記者(今年3月退社)に関しては「意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と擁護した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140805/plc14080510230007-n1.htm

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 国賊新聞がいまごろやっと認めても、南朝鮮は世界中にあの意味不明の「従軍慰安婦像」なんてのを建てまくり、日本軍が20万人の、30万人のいたいけな朝鮮人少女を拉致し、強姦し、性奴隷にしたと大嘘を喧伝している。
 最大の敵が身内に居るという不幸。こんな国は他にない。どこの国のマスコミモ、自国をあいし、誇っているのに……。

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 朝鮮における従軍慰安婦はアサヒシンブンとフクシマミズホらによる捏造だが、朝鮮人がベトナム戦争において、違法な残虐無差別殺人を犯したのは歴史的事実である。ベトナムはいまその準備をしているから、やがて国際法廷で裁かれることになろう。


 私はいままでに200人ほどのベトナム人と話した。全員が朝鮮人を大嫌いだと応えている。もっとも今まで50ヵ国ぐらいのひとと話しているが、朝鮮人を好きだというひとに会ったことはない。

 しみじみ朝鮮は愚かだと思う。世界中で朝鮮人を好きだと言ってくれるのは、韓流ブームとかに躍らされる日本人のバカだけなのだ。KPOPなんてのを好む日本人のカスだけなのである。それを大事にせねばならない。世界中で唯一、自分達を好いてくれる稀有な連中なのだから。なのに国を挙げての反日。今じゃそういうバカカスすらも嫌韓になりつつある。先の見えない盲だ。必死に墓穴を掘っている。



CHOSENHASI

 明治43年に日本は朝鮮を併合する。その当時の李氏朝鮮の様子だ。日本の江戸時代の橋と比べると、いかにこの国がひどい状態だったかが解る。糞小便はみな道路にした。当時のパリ・ロンドンなどもひどいものだが──ベルサイユ宮殿にトイレがなくみな庭でしていたのは有名──彼らですら朝鮮に来て、こんな不衛生な汚い首都は初めてだと記している。
 
 こんなものを引き受け、こういう環境で李氏朝鮮の悪政に苦しむ文盲だらけの民衆を、インフラを整備し、教育を与え、それなりの国となる基盤を作ってやった。なのにやつらの言うのはいまだに日本への不満と悪口だけだ。どれほど日本から金を毟り取ったことか。なんでこんなのと関わってしまったのだろう。地理的不幸と割り切らねばならないのか。

 日本というさんざん世話になった国への感謝を忘れ、「やられたやられたとやられた」と、やられたことばかりを駄々っ子のように喚いて拗ねていると、そのうち足もとから、自分達が他国に「やったこと」が顔を出す。この国は、そのことで崩壊するだろう。

 ベトナムから正規に告発されたとき、口先だけでごまかして生きてきたこいつらが、今度はどうごまかして逃げようとするか、けだし見物である。が、決して逃げられない。世界は、日本のようなお人好しだけではない。真っ当に裁かれなさい。沈みなさい。もう日本は助けない。
  1. 2014/08/05(火) 12:17:15|
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藤圭子&沢木耕太郎『流星ひとつ』考⑭──アルバム「新宿の女」の青さ、時代の輝き──裏ビデオ、ドリー・ファンク・Jr

shinjuku-album アルバム「新宿の女」のジャケット

 藤圭子のファーストアルバム「新宿の女」が発売されたのは1970年の3月。これが20週連続アルバムチャートの1位となる。それを抜いて1位になるのが7月に発売されたセカンドアルバム「女のブルース」で、これが17週1位。この37週1位はあまりに有名な記録。さらには今回調べ物をして、このあと前川清との共同アルバムが4週連続1位となり、合計41週という記録をもっていると知る。まさに社会現象だった。

 私の大好きなデビュー曲「新宿の女」が発売されたのは1969年の9月だが、それはさほどの話題にならず、真の藤圭子ブームは、シングル「女のブルース」が出た1970年の2月、このアルバムが発売になった3月という1970年になってからの爆発であることが確認できる。



 アルバム「新宿の女」の収録曲は以下のもの。オリジナルは「新宿の女」と、そのB面であった「生命ぎりぎり」の2曲しかない。あとは大ヒット演歌のカバーアルバムである。しかし前記したように石坂まさをのトラウマであり怨みである「夢は夜開く」はすでに収録されている。

「新宿の女」に続いて出したシングル、オリジナルの「女のブルース」が大ヒットしているときに、その次の曲としてファーストアルバムに収録されていた「夢は夜開く」を引っ張りだしてくるのだから、いかに石坂がそれにこだわっていたことか。

 そしてまた、20週連続1位の記録を作るこのアルバムは、ほとんど全部がカバーなのだから、ここには石坂の力はさほど関与していない。石坂の提供した楽曲の力ではなく、このアルバムは「歌手藤圭子の力」で売ったものであることがわかる。



アルバム「新宿の女」収録曲

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 私は今回大きな期待を持ってこのアルバムを聴いた。今までも何年に一度か、たまに思い出すたびに聞いてきたのは「新宿の女」だけである。その他のカバーは、当時のラジオをべつにすれば長年聞いたことがなかった。
 そこにはあの時代と天才歌手藤圭子の輝きが詰まっているはずだった。ところが、まあたしかにあのころの時代は感じたものの、社会現象とまでなったはずの身震いするような感動は存在しなかった。それらはみた元歌よりも劣っていた。

 私は「カスバの女」が好きなので、YouTubeで集めたいくつかのテイクを持っている。藤のそれは、本家のエト邦枝や、カバーしたキム・ヨンジャにも劣るものだった。青江三奈作品も同じ。カバーの多い「あなたのブルース」も同じく。



anatanoblues

 本家・籔危険──ATOKには「籔が危険」となるらしい──矢吹健の「あなたのブルース」は、なんだか幽霊が出て来そうな気味悪いアレンジでどうにも苦手なのだが、当時寺山修司が、「『あなたのブルース』の〝あなた〟は、その数だけの通りすぎた男である」なんて解釈を書いていたことに影響を受けて私のお気に入りだった。つまりこの歌、サビの部分で「あなたあなたあなたあなた あーなあた」と「あなた」を連呼するのだが、寺山の解釈だと、この「あなた」は今好きなひとりを呼んでいるのではなく、通りすぎた男達でありあなたの数だけの男なのである。そう言われると、すさんだ暮らしのホステスが、「あなた」と呼ぶたびに男の写真がパッパッと代って行くような映像が目に浮かび、う~む、と寺山の感覚にうなったものだった。

 そういえば「課長島耕作」でも、馬島典子が「今までに惚れた男ベストテン」のビデオを自分で作ってもっているって話があった。みんな大金持ちなのだが、最後にただのサラリーマンである島が1位で登場する。けっこうほろりとするいい話だった(笑)。

 いろいろなひとのカバー「あなたのブルース」を持っている。本当は矢吹の歌唱が一番いいのだが、どうにもあのアレンジは好きになれない。作詞作曲の藤元卓也さんには敬意を表するが、いったい誰があんな気味悪いアレンジをしたのだと調べたら、編曲も藤本さんだった(笑)。



 今回大きな期待をして藤圭子バージョンを聞いた。結果、青江三奈の足もとにも及ばないと知る。ここにあるのは、独特の嗄れ声が魅力的だが、「唄の巧い18歳の娘さんの歌」でしかなかった。ひと言で言えば、若い、青い。

 思えばたまに聞く「新宿の女」も、もう何度も聴いているから慣れてしまったが、初めて、それこそ何十年ぶりかで聞くときは、あのころ五木寛之の言った〝怨歌〟を意識して、どれほど興奮するものだろうと思って接したが、そこにあったのはやはり「唄の巧い18歳の娘さんの歌声」でしかなかった。単なる「懐かしい唄」だった。

 やはりあれは衝撃的な社会現象だったのだと、あらためていま、思う。端整な美貌、それとは対象的などすの利いた声、噂される特異な出自、まさに流星のごとき突如の出現、それら全体のミックスが、あれほどの大きなムーブメントとなったのだ。だがこのファーストアルバムを聞く限り、五木の言う〝怨歌〟というほどのどろどろしたものはまったく感じない。



 しばらく前になるが、スポーツ紙の記者をやっている知人がこんなことを言っていた。
「裏ビデオの名作って、いま見るとぜんぜんつまらないよね」と。「『洗濯屋ケンちゃん』なんて、つまらなくて見られない」と。

 裏ビデオが出るまでは、そういうモロ映像は、ブルーフィルムと呼ばれ、映写機を保有し、独自の入手経路を持っているごく一部の金持ちだけの楽しみだった。それが誰でも家庭で見られるようになった、とんでもないエポックメーキングな電化製品だった。だが裏ビデオが与えた影響は、ただそれだけのものではない。その前から高級な趣味の嗜好品として家庭用小型ビデオデッキは完成していた。しかし高いし、さほど売れなかった。消耗品のテープも高かった。それが爆発的に普及したのは裏ビデオのお蔭と言われている。普及により値段も下がった。その経済効果は計り知れないものがある。裏ビデオとは、日本経済史からも無視できない存在なのだ。

 その代表的名作と呼ばれたものに「洗濯屋ケンちゃん」というのがある。見ていないので強くは言えないが、知人の言う「今じゃつまらなくて見られない」には同意見である。似たような経験はしている。そういうものだ。当時の衝撃的なものも、時代が過ぎるとそうなってしまう。



 同じような例をもうひとつ。
 1969年、昭和44年に初来日したNWA世界チャンピオン、ドリー・ファンク・Jrは、私にとって特別な存在だった。前チャンプ、ジン・キニスキーや前々のルー・テーズと比べると、型破りの27歳の若さ、ウエストテキサス大学を卒業し高校の物理教師の免状を持っているというインテリ。同行した金髪のジミー夫人の美しさ。それまでのプロレスの印象を一新する新チャンプだった。すでに若禿だったが、それを補ってあまりある智性が魅力的だった。というか私は、ハゲってかっこわるいというイメージを、ドリーで覆されたように思う。

 ジン・キニスキーからベルトを奪ったのが13回目の挑戦であり、政治力によって成り上がったひ弱なチャンプではないかという噂もあった。父のシニアがセコンドにつき、わざとらしい過保護でそれを盛りあげた。
 しかしドリーは、大阪で猪木と0対0の60分フルタイムの闘いをすると、とんぼ返りの東京で、今度は馬場と1対1のまたも60分フルタイムの試合をやってのけた。このとき馬場がドリーから一本奪ったのが、初公開のランニングネックブリーカードロップだった。それまでこの形の技はクロスラインしかなかったので、馬場の新決め技に興奮した。ひ弱どころかすさまじいスタミナである。そして帰国。翌日からはまたアメリカ各地を転戦しての防衛戦である。NWAチャンプの苛酷なローテーション。馬場や猪木が日本ローカルのチャンピンオンだと知らされた。忘れられない名勝負だ。あのときドリーにもらった感激はいまも忘れない。

 私はどんな有名人と会っても、いわゆるあがるという感覚はないのだが、ずっと後、馬場さんの好意で(というか竹脇さんの力で)後楽園ホールの控室でドリーと会わせてもらい、高校生時代からの大ファンであることを告げて握手してもらったときは天にも昇る気持ちだった。隣にはそのころ人気絶頂のテリーがいたが目に入らなかった。テリーが、地味な兄にもこんな熱狂的なファンがいたのかと喜んでいたのが印象的だった。つまりこういうものは「そのひとをいつ知ったか、いつファンになったか」が重要なのである。

 後に知りあった一回り年下のプロレスファンから、「さんざん名勝負と聞かされていたので楽しみにレンタルビデオで見たが、2試合ともじつにつまらない試合だった。期待外れだった」と言われて傷ついた(笑)。ちょうどビデオデッキが普及し、レンタルビデオ店が続々と出来てきた頃である。

 言われて見れば、今の常識で言うなら、2試合連続フルタイム、共に引き分け、も、日本のチャンピンオンを傷つけないNWAチャンプの常道である。格下の猪木にはワンフォールも許さず、格上の馬場には一本与えることも、すべて決まっていたことであり、日本でベルトを取られてしまうのではないかとリング下から過剰にちょっかいを出したりするシニアのそれもシナリオ通りである。そしてまた今時の器械体操的跳んだり撥ねたりからすれば、というか四天王プロレスのころと比べても、とんでもなく技も地味であった。ドリーはこのあとロビンソンと闘ってダブルアームスープレックスを覚えたりして技が多様になって行く。あのひとはチャンピンオンになってから強くなった。だがこのころの決め技は父親譲りのスピニングトーホールドだけである。この技も「なぜスピニングする必要があるのか」という哲学的命題を内包している疑問点の多い技なのだった。
 そいつにそう言われて当然だった。こちらとしては腹の中で「あの時代を知らないヤツに、あのすばらしさがわかるか」と居直るだけである。そうなのだ、「時代」で語るべきものは、後からの「今」で解釈しても意味がない。



 音楽を裏ビデオやプロレスの試合と同列に並べるのは失礼とも思う。
 1950年代のマイルスを始めとするJazzの巨星の演奏は、いまも色褪せないし、私の好きなジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの演奏など、録音も楽器の音色もひどいものなのに、そのポテンシャルと輝きはいつ聴いても陶然とする。
 裏ビデオやプロレスの名勝負は「時代そのもの」であるが、音楽を時を超えている。未だにリスト以上のピアニストはいないと言われるように。

 だからこの比喩は藤圭子に失礼かとも思う。だが正直な気持ち、当時あれほど衝撃を受けた藤圭子の歌唱に、いまさほどの感激をしないのもまた事実だった。特に〝怨歌〟というような凄味は感じない。あれは五木寛之さんも時代に躍らされた勇み足だったのではないか……。



 ただ、このこともまた書いておかねばならない。私が大きな期待を寄せて、それほどでもなかったと書いているのは1970年3月発売の藤圭子のファーストアルバムについてである。当然吹きこみはそのかなり前だったと思う。
 いまYouTubeで、藤圭子が1970年10月23日に渋谷公会堂でやったというコンサートの音を聞いている。どなたかがアップしてくれたものだ。これはもうファーストアルバムとはぜんぜんちがう。たった一年で、この「しゃがれ声の唄の巧い娘さん」は、一気に「プロの歌い手」になっている。そこにはファーストアルバムで感じた若さ青さはもうなく、円熟の中年歌手の雰囲気すら感じる。駆け足で生きたひとなんだなとあらためて感じる。(続く)
  1. 2014/08/04(月) 20:50:19|
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藤圭子&沢木耕太郎『流星ひとつ』考える⑬──ネオン演歌『新宿の女』とテレサ・テン的な世界

tsugunai

 人後に落ちないテレサ・テンファンである。しかしそれを言うとすぐに「何がいちばん好き、『つぐない』? 『時の流れに』? 『別れの予感』? 意外に『空港』だったりして!?」と、テレサファンに鼻息荒く迫られて辟易する。
 私は天才歌手テレサ・テンの信奉者にちかいぐらいの大ファンだが、その手の「荒木とよひさと三木たかしの作った世界」には興味がないのである。いや、大嫌いなのだ。あれはあれでテレサのひとつの魅力的な世界であろうが、あのひとをあれだけで語るのはあまりに偏狭である。

 たとえばテレサの「You Light up my life」を聞いてくれ。Debby Boonのヒット曲だが、本家を超えているのはもちろん、この歌の多くのカバーの中でも白眉であるWhitney Houstonに負けていない。いや勝っている。こんなアジアの歌手がいるものか。こんな偉大な傑物をあの『つぐない』的な世界で評するのは失礼だ。旅行作家・下川祐治が言った、「テレサを〝台湾の美空ひばり〟と評する人がいるが、テレサはアジア全体の歌姫なのだ。どれほど多くの国の人々にあいされていることか。美空ひばりが〝日本のテレサ〟なのだ」は至言である。まあ『つぐない』的世界しか知らなければたしかに〝台湾の美空ひばり〟であろうが。



 私はむかしから演歌だかムード歌謡だか知らないが、この種の歌にあるわざとらしさ、別れた女が別れた男に言う「しあわになってね、わたし祈ってます」的なものが大嫌いだった。最初は好き合ってつき合っても、いろいろあって嫌いあって別れるのである。そうそうハッピーな別れというものもあるまい。だから別れのことばは「不幸になれ、死んじまえ、呪ってやる」のほうが適切だ。

 ところがこの種の歌に出てくる女はみな「わるいのはわたし、あなたはわるくない。あなたはもっといいひとを見つけてしあせになって。わたし、それを願ってます」みたいな寝惚けたことを言う。それをまた中島みゆきでも言うならすこしは意味を持つが、そうではない。おっさん作詞家が女ことばの歌詞を書き、おっさん歌手が甘い歌声で歌い、別れた女に今も慕われていることを願うおっさんたちが(事実はそんな恋愛をしたこともないおっさんたちが)、これを支持し、レコードを買うのだ。中島の「うらみます」が正しい。

 そういう歌の集大成として『つぐない』があり、多くのムード歌謡歌手が構築してきた世界だが、今では「イコールテレサ・テン」というぐらい、テレサがこのジャンルの代表歌手なのはまちがいない。時代を知らないのに、テレサのこの種の歌をカラオケで披露する三十代の女も多い。ずいぶんと耳にした。これを歌うとおっさん連中がよろこぶのを計算している。実際私以外のみんなはよろこんでいた。

 歌詞としては男バージョンにもある。北山修が書きマチャアキが歌った「さらば恋人」の、「悪いのはぼくのほうさ、君じゃない」なんてのもそうだ。女の寝ているあいだに置き手紙を置いて部屋を逃げだす男なのだ、しつこい女から必死に逃げだす。そんなきれいごとを言うなって。ハッキリ「悪いのはおまえ、おれは被害者」と言ったほうがいい。でもそれじゃ歌にならない。



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 むかしからそんな歌はあった。たとえば由紀さおり『生きがい』である。歌詞はこちら。
 発売は1970年の10月だから藤圭子ブームの年である。しかしこの歌もそうなら、ビートルズの「Abbey Road」に、イージーリスニングのレーモン・ルフェーブル「シバの女王」もこの時期か、やはり1969年から1970年はいろいろあったんだな。記憶に残るはずだ。これほんとは「サバの女王」なんだけど日本語だと「鯖」のイメージが強いから「シバ」にしたんだよね。これは私のHDDの「イージーリスニング」の項目にあるはず。いまからレーモン・ルフェーブルを聴きつつ続きを書こう。

 別れた女が、以前一緒に住んでいた男のことを、「いまあなたは目覚めタバコをくわえてる」「お茶さえ飲まないで飛びだしてゆくのね」と朝に、「いま黄昏の街、あなたは歩いてる」と夕に、想像し続けるのである。気味が悪い。引き篭もりの精神病である。いまだったらストーカーとして問題になる。でも山藭道雄(出ねえなあ、ATOK、高名な作詞家先生ぐらい一発で出せ、ダメだ、いちいち辞書登録してられん。切り替える。ありがとうGoogle日本語入力、一発変換だ。どっちが有料ソフトなのかわからん)、山上路夫の詞を、あの澄んだ歌声の美貌の朝鮮人歌手(笑うと歯茎が出て馬の顔になるけど)由紀さおりが歌うと、男共がそこまで思われる自分を想像してついレコードを買ってしまうのだ。なんちゅう御都合主義。でも「夢を売る商売」と解釈すれば本道か。



shinjukunoonna

 テレサと由紀さおりの話を前振りにして、やっと本題の藤圭子の「新宿の女」のこと。
 私はネオン演歌にも、ネオン演歌の描く世界にも、興味も縁もない。ホステスに惚れたこともないし(というかそういう店に行かない)、貢がれたこともない。それを願ってもいない。假りに知りあったとしても、話が合わないのは目に見えている(笑)。
 ネオン演歌は好きではないが、「別れた女が、いまもあなたを思ってる、あなたのしあわせを願っている」という気味悪いのと比べると、この「新宿の女」の世界はじつにスッキリしていていい。歌詞はこちら。

 「ネオン暮らしの蝶々」には「やさしいことばがしみたのよ」という世界。いいなあ「ネオン暮らしの蝶々」か。昆虫採集してみたい。林家三平のネタ。「先生、ぼく夏休みの宿題に昆虫採集してきました。ぼくのお姉さんとお兄さんです。夜の蝶々と街のダニです」。小学生のときに聴いたネタだが今も好く覚えている。

 ま、女はすさんだ暮らしのホステスである。この女が惚れて、だまされて、捨てられたという男も、ろくなもんじゃないと推測される。「なんどもあなたにだまされた」は、浮気のことであろうが、生活費を博奕に使われたなんてのも含まれるのかも知れない。泣き喚いての大喧嘩になるが仲直りのセックスではい元通り。よかったね。

「バカだな、バカだな、だまされちゃって」の世界はいい。「別れたけど今でもあなたが好き。わたしよりもっといいひと見つけてしあわせになってね」的な気味悪さよりもずっといい。「新宿の女」は、自分を「バカだな、バカだな」と卑下するが、いつまでも未練は引きずらない。すぐにまた前のと同じようなろくでなしに惚れて、貢いで捨てられて、あらたにまた「バカだな、バカだな」と嘆きつつ前進するだろう。「生きがい」的な未練が気味悪い停滞なら、ここには小気味いい前進がある。前向きだ。

 ネオン演歌に興味がないのに、藤圭子の歌声が恋しくなったとき、いつもこれを聴くのは、前記したが「この種の歌には珍しい長調の曲が好きなこと」がいちばんだが、ポイントは歌詞の中にある「懲りないバカの前進」である。いくら馬券で負けても懲りずに今でもやっているのと同じく、このバカホステスに同好の士のにおいを感じるのだ。お互いバカではあるが、生きてる限りは停滞よりも前進だ。(続く)
  1. 2014/08/04(月) 11:20:13|
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藤圭子&沢木耕太郎『流星ひとつ』考える⑫──石坂まさを以外の曲「京都から博多まで」「別れの旅」「面影平野」

kyoutokara

 いきなりデビュー曲から師匠・石坂とのコンビで大ヒット曲を連発し社会的現象とまでなった藤は、その後しばらくは従容状態となる。それは演歌歌手としてふつうだったし、そもそも演歌歌手なんてのは代表曲がひとつあれば喰って行ける世界だ。藤はもう一生食いっぱぐれのない宝を手にしていたと言える。しかしデビューからがあまりに凄まじかったからか、陣営はさらなる大ヒットを狙ったようだ。ここで一時石坂から離れて、阿久悠の詞で作品を作る。曲は猪俣公章。それがひさびさの中ヒットとなる「京都から博多まで」。それなりにヒットしたのだろう、テレビの歌謡番組からよく流れていた。私個人は、サビのメロディを覚えている程度。もう藤圭子に興味をなくしていた。


 元々ネオン演歌なんて分野には興味がなかった。今もない。今までもこれからも無縁の世界だ。そんな私に興味を持たせた藤圭子が特別な存在だった。

 ただしJazzを聞くようになって30年以上経った今は、当時コバカにしていたその種のネオン演歌でも本物はすごいとわかるようになった。たとえば青江三奈だ。
 あのイントロの「あはん、あはん」で有名な「伊勢崎町ブルース」が流行ったころ、しみじみくだらん歌だと思った。なんの興味もなかった。大嫌いだった。そしてまた紅白歌合戦というくだらん番組では、あの「あはん」は教育上よくないと、あの部分は青江の周囲に集った応援団(笑)が、笛やホイッスルを吹いてごまかすという演出をしていた。まことにくだらん。いかにもNHK。そういう時代だった。そのくだらん番組を私はもう見なくなっていたが、藤の出ていたころはまだ彼女を見るために見た。見なくなってもう40年経つ。

※ 

 紅白ついでで言うと、藤圭子が紅白で強要される網タイツ姿を拒んだ話が『流星ひとつ』に載っている。これまたよく覚えている。なんだか知らんが番組の真ん中あたりで、女性歌手が全員網タイツになってラインダンスを踊るようなコーナーがあった。NHKなりの精一杯の視聴者サーヴィスだったのだろう。藤は、これを強硬に拒んだ。大NHK様も「全員でやってもらわなきゃ困る」と譲らない。しかし藤は我を通し、島倉千代子らと一緒に網タイツ姿にならない応援団に廻った。と書いて、そうだったそうだったと当時を思い出す。藤は網タイツにならず応援団のほうにいた。正しい姿勢である。しかし新人として(デビュー時ではないがまだまだ新人の時期だ)この我の強さは特殊である。周囲は冷や冷やしたことだろう。『流星ひとつ』では、「躯にも自身がなかったし」「くだらないと思ったし」と、その理由を語っている。NHKから切られる理由は充分にこのころから持っていたことになる。


 当時の私が色気づいたニキビ面の学生として、女性歌手の網タイツラインダンスを楽しんだかというとそういうこともなく、逆に前々から嫌いだったNHKに、完全に愛想を尽かす一要因になった。なんつうか、やることなすことダサいのである。当時はまだダサいということばは流行ってなかったが。
 
 思い出すと、小学生の頃からもうNHKは嫌いだった。「お国自慢西東」だったか、宮田輝というアナが全国を回り、その地の方言で挨拶したりするのが受けていた。父母は大好きだった。楽しみに見ていた。私は反吐が出るぐらい嫌いだった。NHK嫌いの基本は、そういうわざとらしさ、にある。しかし田舎者には受けるらしい。いやそのころの私も誰にも負けないぐらいの田舎者だったが、どうにもこの種のものは受けつけなかった。後に宮田は記録的大量得票で国会議員になる。この種のアナが国会議員になるのの走りである。いま神奈川県知事がアナ出身だ。クロイワ(笑)。そのまたあと「宮本輝」という作家を知ったとき、なんちゅうセンスのない筆名だと思った。これじゃ誰だって宮田輝を思い出す。今じゃもうこっちのほうが有名だけど。


 椎名誠さんの初期のエッセイに「中央線終電の中でウォークマンで演歌を聴く。妙に合う」というのがあった。一種の「風景と音楽論」だ。後に私がタイの田舎をドライヴするときにどんな音楽が似合うかと、日本からカセットテープを大量に持ち込み、実験したのと同じような遊びをすでに椎名さんがやっていた。これが入っているのは「国分寺書店のオババ」か。
 
 そのとき椎名さんが聞いたのが青江三奈だった。「池袋の夜」だったか。もっとマシな音楽を聴けよ、と思った。そのときの私は二十代後半。ロックとブルース漬けの日々を送っていたが、まだ本物がわからなかったのだろう。いまはわかる。たしかに「中央線の終電」に「青江三奈」は似合うだろう。
 
 やがてJazzとClassicの世界に埋没するようになって、埋もれているそこからひょいと頭を出したら、ある日突然Jazzがわかったように、いきなり青江三奈の凄みがわかるようになっていた。すごい歌手だ。
 このひとも朝鮮人である。まこと、朝鮮人の音楽能力には敬服する。


 話、藤圭子にもどって。
 デビューからの4曲、私にとっての藤圭子のすべてである4曲の時、私は田舎の高校生だった。

abbeyroad

「新宿の女」が発売されたのが1969年9月25日。ビートルズのアルバム「Abbey Road」がイギリスで発売になったのが翌日の26日。日本での発売は1ヵ月遅れ、10月下旬だった。
 藤のシングル第二弾「女のブルース」が発売になる1970年2月、私は毎日毎日「Abbey Road」を聴いていた時期である。あのジャケット、ポールだけ裸足なので「ポールは死んでいる」と噂が流れたやつだ。ビートルズ最高のアルバムというと「サージェント」だ「ホワイト」だと意見が分かれるが、私はむかしから断然「Abbey Road」支持者である。理由は、トータルコンセプト、になる。あのB面のメドレーの完成度を見よ。ものの本によると、このB面をポールは誇り、ジョンは否定的だとか。私は断然のポール好きなのでここも納得できる。



 しばらく低迷した藤が「京都から博多まで」をヒットさせるまでに1年半の時間がかかった。その間に田舎の高校生だった私は東京で長髪の大学生になっていた。歌を作る音楽サークルに属し、自己流の作詞作曲に没頭する日々。手本としてボブ・ディランやジェームス・テイラー等のシンガーソングライターの作品を聞きまくる。

neil young-harvest

 藤の「京都から」がヒットしたのは1972年の春。そのころ私が惚れていたのは同時期に発売されたニール・ヤングのアルバム「Hervest」。全曲すばらしく、細部までよく磨かれた歴史的傑作である。「ダメージ・ダン」のコピーに勤しみ、「ハート・オブ・ゴールド」を真似てブルースハープを吹く私に、彼女の歌う阿久悠の歌詞「京都から博多まで あなたを追って 西に流れてゆく女」は響いてこなかった。もう私にとって藤圭子は、かつて一時期時代を共にしたというだけの遠い存在だった。 


 『流星ひとつ』を読んで、音楽話として、とても興味深かった話を二題。

wakarenotabi

 ひとつはこの「別れの旅」。これは「京都から博多まで」のヒットで気をよくした陣営が、阿久悠作詞、猪俣公章作曲という同じコンビでヒットを狙ったものである。
 前記したように私にとって藤のヒット曲はデビューしてからの4曲がすべてであり、その後の歌は知らないのだが、私はこの曲の詞もメロディもよく覚えている。いまも歌えるほどだ。ラジオから流れてきたのを聞いて、即座に気に入った。私好みのメロディなのである。デビューからの4曲以外で好きな藤の曲といったらこれになる。

 しかしこの曲はヒットしていない。わたし的には「京都から」より遙かによい楽曲なのになぜヒットしないのだろうと不思議だった。今回その謎を藤が『流星ひとつ』で明かしている。
 その前に阿久悠の歌詞を見てもらわないとならない。こちらです。




 藤は、この曲を大好きだったと言っている。「京都から」よりもずっと。だが歌詞がつらくて唄えなかった。「二年ありがとう しあわせでした」のあたりである。
 当時の藤は前川清との2年間の結婚生活を終えたばかり。「つらくて唄えない」は、「思い出が多すぎて」のような意味ではない。「私生活を売りにする姿勢」についてである。結婚離婚の現実と歌詞の内容が合っている。潔癖な藤は、そんな私生活を売りにするようなことはできない。
 
 阿久悠の詞が、そういうことを意図して作られたものであるのはまちがいない。読めばわかる。こういうことを売りにするのが芸能界である。だが侠気あふれる正義感の強い、潔癖症の藤には、自分の離婚を売り物にするような歌詞を歌うことは出来なかった。感情を込めて歌い、最後にそっと涙を拭ったりするのが、そういう世界の常道なのに……。

 藤はこの曲を営業でも歌わなかった。レコード即売会のような催し物でも歌わずB面の曲を歌ったという。ここでも我を通した。ヒットしなかったのは自分のせいであり、大好きな曲だけに申し訳ない、という気持ちはある。「だけど歌えないよ」と藤は沢木に語っている。このひとの一本気はうつくしい。でも芸能人としては、やはり問題ありなのだろう。私は断然藤圭子の感覚を支持するが。


omokageheiya

 もうひとつ興味深かったのは「面影平野」について。これは1977年の曲。阿木燿子作詞・宇崎竜童作曲という夫婦に依頼した作品だ。藤ももう26になる。私も社会人か。
 沢木はこの曲が好きらしく、藤にこの詞を掲示して迫る。「すばらしい歌詞であり、曲も良い。自分は大好きだった。なのにヒットしなかった。それはあなたの責任ではないのか!?」のように。
 「面影平野」の歌詞はこちら。



 藤は歌詞を見つつ、「すばらしいと思う。特にここなんか阿木さんでないと書けない」と沢木の意見に合わせる。
 だがそのあと、「じゃあなぜヒットさせられなかったんだ」と沢木に迫られた藤はハッキリと、自分は「面影平野」には燃えなかったのだと応じる。良い作品だとは思う。だが石坂の「女のブルース」に身震いしたような感動を、この作品から受けなかったのだと。

 同意である。えらい、よくぞ言った! と思う。

「面影平野」の歌詞はよく出来ている。別れた男とのいろいろな思い出が詰まった「六畳一間の面影平野」である。しかしこの詞、あくまでも技巧だろう。べつに体験至上主義者じゃないが、石坂の初期の作品にあるような生々しいものがまったく伝わってこない。阿木燿子というオシャレな?作詩家が、都心の高級マンションで、「演歌の藤圭子に似合うのはこんな世界だろう」と創りあげた技巧的作品である。一瞬でわかる。

 藤圭子はブルースシンガーなのだ。その歌が真のブルースなのか、もどきなのかは一瞬にして見抜く。藤の目には、これは「技巧派の作った巧みなブルースもどき」と映ったのだ。


 
 これを良い歌詞だ、なぜこれをヒットさせられなかったのかと迫る沢木には疑問だ。字面としてすぐれた歌詞かも知れないが、これには心がない。このひとも阿木燿子側の感覚なのだろう。それは後に井上陽水との関わりの文でも思う。私は沢木耕太郎を音楽のわかるひとだとは思っていない。いや音楽に限らず、沢木は、私の知っている分野で言うなら、将棋も競馬も、なにもわからないひとだ。それは取材当時は知らなくて当然だ。そういう意味ではなく、このひとは何ものにも「溶けあわない」と言ったほうがいいか。山野井泰史の「凍」でもそう感じた。

 このひとは対象物と併走する視点で独自の世界を築いてきた。対象物と溶けあわないから、両者のあいだにある厳然とした一線が、逆に読者にはクールな視点として魅力的に映る。だからこそこのひとはノンフィクションライターとして傑出している。沢木耕太郎の魅力とは、沢木耕太郎という筆名の作家の生きかたそのものなのだ。作品が沢木耕太郎なのである。

※ 

 後にYouTubeのそれを見た宇多田ヒカルが、「『面影平野』のかあちゃん、かっこいい」のようなことを、ブログに書いたのかツイートしたのか、そんな話を耳にした。正確じゃないがニュアンスは合っている。もちろんまだ藤が存命の時期である。
 私も今回それらを見てみたが、感じるものはなかった。「夜のヒットスタジオ」の「面影平野」だった。藤が燃えていないのが伝わってくる。宇多田ヒカルが「うちのかあちゃん、ほんとにすごい」と感嘆するものは他にある。

※ 

utadafirst

 そういや私は宇多田ヒカルのファーストアルバムを買っている。今もCD売りあげレコードであるあれだ。その理由は、話題の「藤圭子の娘」のアルバムを買ったのであり、彼女の歌にソウルを感じたからではない。当時もう奇行で目立つだけの過去の人である藤圭子が、ここまでまた逆転満塁ホームランを放ったのだから記念に買っておくべきと思った。世間一般はいま藤を「宇多田ヒカルの母」とするだろうが、私にとってはあくまでも宇多田が「藤圭子の娘」である。

 なんかしらんがあれをR&Bとするのはいかがなものか。私には、ただの今時の娘が作ったポップスでしかなかった。日本の流行歌史としては、あの時期R&Bが流行り、宇多田がその流れを作ったというのだが、それって本物のR&Bに失礼じゃないのか。もっともその歌謡史では和田アキ子あたりもR&Bに分類されるらしいから私とは解釈がちがうのだろう。今は宇多田のCDがどこにあるかも定かではない。ハードディスクに5万曲ちかく挿れているが、その中にもない。捨ててはいないから押入のどこかにあるはずだが。

 それでも日本人のCDを買ったのは、というかもうJazzとClassicしか買わなくなって長いから、それ以外のCDを買ったのはあれが最後になる。それが「藤圭子の娘」であることは私的にうれしい。(あ、そのあとアコーディオンのcobaを買っているか。でも日本人の歌モノでは宇多田が最後だ。)

※ 

 宇多田ヒカル再婚のニュースが伝わってきた。藤の母も姉も藤自身も、19で結婚して離婚した。するとなんと娘まで19で結婚して離婚したのだった。しあわせになって欲しいと願うが、年下のイタリア人であるらしい。いま無職だとか。とはいえろくでもない男に貢ぐのもまた母親譲りだ。『流星ひとつ』に、その辺の話もたっぷりあり、嗤うよりも先にせつなくなった。
 宇多田の結婚相手は最初が朝鮮人、次がイタリア人。この歌姫には、なかなか日本人の男は撰んでもらえないようだ。(続く)
  1. 2014/08/03(日) 20:48:11|
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日本人のイニシャルは姓・名の順が正しい──に【追記】

日本人のイニシャルは「姓・名」の順が正しい》に、《「姓・名」と「名・姓」によるトラプル》を【追記】しました。
  1. 2014/08/03(日) 19:37:04|
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ことば話──「腹腔」の読みかた──ふくこう、ふくくう

2014年08月02日16時13分58秒

市村正親 胃がん手術終了「順調に回復」

 胃がんで休養中の市村正親(65)が2日までに、都内病院で腹腔(ふくくう)鏡手術を終えたことが同日、分かった。http://www.nikkansports.com/

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 腹腔をずっと「ふくこう」、発音的には「ふっこう」と読んできたので、尊敬するアサヒシンブン系ニッカンスポーツ様に、カッコつきで「ふくくう」とされると、こりゃ今まで何十年も誤読してきたのかと焦る。 
 いま辞書は「ふくこう、ふくくう」と両方載せているようだ。



「腹腔」を「ふくくう」と読むのは、ツクリの「空─クウ」から読む、いわゆる百姓読み。
 毎度書くが、この場合の百姓は「世の中のふつうの人々全般」の意味。元々「百姓」ということばは、漢字からも感じとれるように、農民、漁民、猟師、職人、すべてを含むひろい意味のことばだった。それがなぜか農民限定になり、さらには差別語にまでなってテレビ・ラジオ・新聞から追放されてしまった。いまもシナには、日本の「大衆酒場」の意味の「百姓酒場」というのがどこにでもある。



「脆弱(ぜいじゃく)」を「きじゃく」と読んで嗤われた女子アナのこれもツクリからの百姓読み。
 麻生太郎が誤読した「破綻(はたん)」を「はじょう」、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」もこのパターンになる。

「ふくくう」も早い時期に言いだしたひとは麻生さんのように嗤われたはずである。しかし世の中、多数が強い。みんなが誤読すれば、それが一般的になり、やがて辞書にも載る。スポーツ紙にもカッコつきで読みが載るようになる。たぶん今が端境期で、あと10年もすれば「ふくくう」のほうが多くなるのだろう。

 医療現場のあわただしさもあるように思う。医者にとっては「ふくこう」でも「ふくくう」でもどうでもいい、手伝うスタッフや看護師がわかればいい。「絶対にこれはふくこうだ」と思っている漢字好きの医師がいたとしても、手術がすんなり行くために「ふくくう」のほうが便利ならそれを使うだろう。漢字の読みなんてのは、そんなものでもある。



 こういうことを書くと漢字好きのオヤジが最近の世相を嘆いていると勘違いされそうなので、書きたくないが書いておく。
 私は高島俊男先生の「日本語が漢字と出会ったのは不幸だった」説を熱烈に支持するものである。できるだけ日本語に当て字の漢字は使わないように心懸けている。

 たとえば高島さんは、「坐」「座」「挫」は「ザ」でしかないと言う。それを日本語の「すわる」に使うのは強引な当て字なのだ。だから私は「座る」「坐る」のような表記はせず、「すわる」にしている。この種の話に興味のあるかたはぜひ「漢字と日本人」(文春新書)を読んでください。

kanjito



 私は漢字なんかどうでもいい、という考えだ。ATOKが自慢する「記者が汽車で帰社する」なんてのを、バッカじゃねえの、と思っている。そんなことに力を注ぐなら、政治家、落語家、力士、そんな名前の変換をもっと充実させろ。
 「腹腔」を「ふくこう」と読もうが「ふくくう」と読もうが、意味が通じればそれでいい。むしろどうでもいい混乱をなくすために、「ふくくう」に統一したらいい。同じく、「脆弱」は「きじゃく」で、「詳細」は「ようさい」にしたらいいのではないかとすら思う。いや「すら思う」ではなく、何十年後かには自然にそちらになっているだろう。

 だからじつにもうどうでもいい話。でも私はまだ当分、「腹腔」という字を見かけたら、「ふくこう」と読んで生きて行く。 
  1. 2014/08/02(土) 17:03:33|
  2. 漢字
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