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吸収場所という誤植

 珍しい誤植
 ネットのサンスポに以下のようなものがあった。もちろん赤字下線は私がしたもの。

■年間最多勝

朝青龍はこの日で今年68勝目。これに続くのが栃東の51勝で、今場所の残り2日間と九州場所を全勝しても朝青龍を上回れない。秋場所13日目での達成は、昭和60年吸収場所初日に決めた千代の富士をしのぐ史上最速記録。「何でこの時期に決まるの?」と北の湖理事長(元横綱)も仰天する快記録に、「うれしいね」と笑顔の横綱。4年連続最多勝は、平成6年から9年の貴乃花以来で、年6場所制では大鵬、北の湖、貴乃花に次いで4人目。(サンスポより)

 もしかしてよく目にしている人もいるのかもしれないが、私はメジャなマスコミのネット上でのこのような誤植を見たのは初めてである。おそらく記事になったばかりであり、すぐに訂正されたものと思う。つまり私がいままで目にしていなかったのは、目にする前に訂正されていたからなのだと思っている。貴重なものを見た気分だ。
 不思議なのは、こういう「九州場所」を「吸収場所」とまちがえるような場合は、それが初めての変換であることが多いのに、この記事ではそのまえに正しく「九州場所」と出ていることである。これだと次の変換のとき正しく変換されるから「吸収場所」になるはずがないのだが、どういうことなのであろう。
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  1. 2005/09/24(土) 15:08:36|
  2. マスコミ
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テレ朝の編集マジック

  意図的なテレ朝


 夕方のニュースショーを見る。新人国会議員の引っ越しがテーマだ。片山さつき、佐藤ゆかり、出戻りのスズキムネオ等。
 新たに自分の部屋となった場所で引っ越し整理をする片山さつきに「先生と呼ばれる気分はどうですか」とワイドショーの記者が訊く。昼のワイドショーでも見た光景だ。新聞記者、テレビ記者、来るたびに朝からもう何度も同じ質問をされることにうんざりし、またついこのあいだまで主計局で働き、防衛予算を削減して話題になっていた誇りもあるのだろう、「あまり何度も初歩的な質問はしないで下さい」「わたしに質問するのなら、もっと違うことがあるのではないでしょうか」「わたしはまったく違う分野から来たわけではないですから」と片山は反発する。もっともだ。片山は、まちがって当選してしまい、「料亭に行ってみたい」「歳費でベンツが買える」と叫んでいたバカ杉村太蔵とは違う。その自負もあろう。今までも第一線だったのだ。私は片山に同情し、相手のバックグラウンドを考慮せず、片山にも杉村にも同じ質問をするテレビ局の浅はかさを嗤った。


 どこのテレビ局でも流れた映像だった。どこもこの「先生と呼ばれる気分は」から片山がキレてしまうところまでを連続して流していた。それを見た人は私と同じような感想を持ったろう。だがテレビ朝日だけは「きょうは国会議員の引っ越しです」とテーマを紹介した後、「中にはこんな人も」と、いきなり片山のキレルところから流してイヤな女を演出していた。これじゃ片山はただの癇癪持ちである。そうじゃなくても女の東大卒で、しかもミス東大だったとか言われて反発も多い。ますます嫌いになった人も多かったろう。さすがテレ朝、狡猾に人心を操作するものである。怖い話だ。
 かくいう私もテレ朝しか見ていなかったら、「やな女だな」と思ったろう。もともと好きな人ではないけれど。それにしてもあんまりだ。ほんとに怖い。
 テレビは編集でなんとでもなるのだと、こんなことを日常的にしているんだなあと、不快になった映像だった。


 殺人事件やスポーツ芸能ニュースに興味がないので、この種のニュースショーを見ていると、私はひっきりなしにチャンネルを替える。落ち着きのないバカオヤジだが、たまにこんな意図的な操作が見えたりして意味がある。

  1. 2005/09/21(水) 05:58:17|
  2. テレビ
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コルトレーンの「stardust」

「バラード」の前の「バラード」

 先週M先輩と渋谷であったとき、ジャズCDを20枚ほどもらった。先輩があまたある見本CDの中からぼくが欲しがるだろうと思うものを選んでくれただけあって逸品ぞろい。今日は夕方、図書館に本を返しに行ったがCDを借りる気はまったくなかった。聞かねばならないものが山とある。急いで帰ってきた。

 このCDはコルトレーンの名盤の誉れ高い「バラード」の前に吹き込まれていたテイクを集め、死後35周年ということで再構成したらしい。プレスティッジ時代の吹き込みである。「バラード」が1961~62年の吹き込みなのに対し、これはその前の1958~59年のものだ。共演者も違っている。当然ながらそれは今頃出てくることでも判るようにコルトレーンがアルバムコンセプトをもって演じたものではない。悪い言いかたをするなら、倉庫整理のとき見つけたものを、死後35周年にかこつけて寄せ集め、「Stardust」と題して発売したようなものである。

 だが、いい。抜群にいい。レッド・ガーランドのピアノもいい。ポール・チェンバースのベースもいい。名人達人揃いだ。「バラード」のマッコイ・タイナーのピアノやジミー・ギャリソンのベースよりもむしろ私には好みになる。なんとも上品な味わい深い作品集である。
 もうひとつの特典は「バラード」がコルトレーンのワンホーンなのに対してフレディ・ハバートのトランペットがあることだ。これが「バラード」の取りようによってはちょっと甘すぎる点を引き締めてくれている。やはり音質の違うホーンがあると世界が拡がる。

 コルトレーンの「バラード」に関しては以前書いた。日本でいちばん売れた、今も売れている彼の作品である。だが通と呼ばれる人からは評判が悪い。あんなものはコルトレーンではないと。上記一応「名盤の誉れ高い」と書いたが駄作と評するジャズマニアも多い。
 このマニアの評価の差と現実の売れ具合、というねじれ現象はおもしろい。いかにもジャズだ(笑)。

 コルトレーンはまさにジャズの求道者と呼ぶのにふさわしい人だった。自分を突き詰めるようにして限界に挑んでいった。とどまるところを知らず次から次へと新しいものに挑んで行き、その力を引きずり出してくれたドラッグにすべてを吸い出され、干からびて死んだ。形が違うしこんなことを言うと両者のファンから非難されそうだが、死に様は枝雀と似ている。両方とも私からすると「あそこまでいっちゃったら死ぬしかないよな」で共通している。
 求道者コルトレーンの後期の音楽は絵でいうとピカソのようである。そのピカソがさわやかな水彩画風景を描いたのが「バラード」だった。ピカソ自身もふつーの絵(?)を描いたらふつーにうまかったことは誰でも知っている。あたりまえだ。天才レヴェルの話である。
 コルトレーンがふつーにバラードを演奏したらふつーに最高であることはわかりきっていたことだった。そしてまたそれが一般に受け入れられ売れることも。でもそうなると求道者コルトレーンを支持する人たちはそれがおもしろくない。これもまたわかる心理だ。

 私は、コルトレーンの「バラード」を聞き、段階的にむずかしいコルトレーンに進んでいった人がいるとしたら、心からうらやましいと思う。私の場合は勉強の一環としていきなりポンと既成のジャズを破壊するかのように一心不乱に精進するコルトレーンに触れてしまった。私がいまもむかしも一番好きなのは50年代のBapである。マイルスとやっている頃のコルトレーンが好きだ。でも目覚めたばかりの勉強中であるその当時はそこまで言い切れない。とにかく何事も勉強だとこっちも一心不乱にコルトレーンの作品集を聞きまくった。

 既成のものを壊しあたらしいものを想像する姿勢はわかったが私には馴染まない。そのことから私は、コルトレーンが私なんぞの理解できない高見にいる人なのだと認めつつ(実際常にあたらしいモノを目指しての上昇志向は驚嘆と尊敬に値する)、自分とは合わない人なのだとも決めつけていった。おおきな障害となったのはコルトレーン好きの存在である。どうもこの人たちとは肌が合わない。
 だからこそまた彼らの推薦する名盤よりも「バラード」が売れている現実にはほくそ笑んでしまう。それは東大卒の共産党員が貧しい無学な庶民に対し、「あなたたちのために」と理想社会を説いているのに、肝腎のその「あなたたち」は地元出身の自民党議員を選ぶ現実と似ている。

 と言えるのは今だからであって、当時の私は読みまくっていたジャズ書に影響されていたから、そこで否定されていた(意図的に無視されていて評価の対象にすらなっていなかった)「バラード」は聴かなかったのである。恥ずかしい。もしもあの当時、コルトレーンについて訊かれたら、そのまんまジャズ解説書のセリフを言ったろう。「バラード」を否定したはずである。仮定するだけで赤面する。
 つい昨年だったか、iTunesから流れてきたオーソドックスな一曲を聴き、「いいなあ、うまいなあ、これ。誰なんだろう」とチェックして、それがコルトレーンの「バラード」の中の一曲と知ったのだった。むずかしいものの食わず嫌いになるならともかく、わかりやすい素直なモノを食わず嫌いしていたのだから、これは頭でっかちになりやすい人間にとっては肝に銘ずるべき反省になる。ずいぶん遠回りをしたものだ。この「スターダスト」を素直に楽しめたのは言うまでもない。

 まったくもってジャズと落語は似ている。
 極論すると「バラード」は三平や『笑点』になる。
 ネットで落語好きの文を読むと、まずは『笑点』の否定から始まっている。それはそれで正しいのだろうが、同時にまた明らかな間違いであるようにも思う。心寂しいとき、三平の明るさにいかに救われたことか。死にたくなるような惨めな時間、喜久ちゃんの毒のない笑いにいかに心和んだことか。
 『笑点』を毎週見ていても落語をわかったことにはならない。だがかといって『笑点』を鼻で嗤い、落語の通ぶる人にはもっと本質的な何かが闕けている。どんなに寄席に通い音源や映像を蒐集し、頭と心に落語を溜め込んでも、日曜五時半の『笑点』を楽しみに待つ田舎の年寄りの感覚を理解しない限り、落語をわかったことにはなるまい。コルトレーンの「バラード」を否定するジャズマニアと同じように。
 というのが今の私の落語とジャズに関するひとつの結論になる。
  1. 2005/09/15(木) 07:04:11|
  2. 音楽
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柔道──やたら泣くんじゃない

 やたら泣くんじゃない!
 選挙速報の夜。
  日テレは選挙速報と野球中継の二本立て。同じくフジは選挙速報と世界柔道の二本立て。なんだかね(笑)。
 重量級の女が勝つやいなや大口を開けて泣き出した。まだ礼もしていない内から大口を開けて泣きっぱなし。泣きながら礼をして、泣きながら畳から降りて、降りてからも泣きっぱなし。もともと不細工な女がポカンと口を開けて顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるものだから醜いのなんのって。
 一般にこういうものは「決して美人ではない××選手だったが、その涙は美しかった」なんてことになる。
 が、ならん。わたしゃテレビの前で、あまりのその醜さに、「このブス、デブ! 大口開けて泣いてんじゃねえよ!」と怒鳴っていた。飯のまずくなるツラである。
 しかし最近では男選手ですらこれをやる。日本人も軟弱になった。涙をこらえて、礼儀正しく礼をして、でも目元にうっすらと、ぐらいでいいんじゃないのか。耐えるから美しい。

 私は井上康生というのが金メダルを取ったとき、表彰台ででっかい母親の写真を頭上に掲げたことが気に入らなかった。若くして亡くなったことを知っている。でもだからこそ、柔道着の内側にそっとちいさな母の写真を入れて表彰台に望んだ、と、その秘話が後々ノンフィクション作家の手で世に出る、と、それぐらいでいいと思った。『作業日誌』にもそう書いた。
 近年の井上の不調を思うとそれを思い出す。スーパースターと呼ばれる人は皆、そういうエピソードがあとから着いてきた。決して自ら頭上に掲げたりはしなかった。その差は、きっと、おおきい。

  1. 2005/09/14(水) 01:43:33|
  2. オリンピック
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漢字とひらがな

3866d4bc.gif漢字とひらがな──とめる・やめる・とどめる
 今週の『お言葉ですが…』は、高島さんの持論であるひらがなを使え、の巻。
 最初は「止める」が「とめるかやめるかわからない文章が多い」から始まる。これはまったくその通りなので私は今、とめるややめるを漢字で書くことはしない。泊めるや停めるは使っているが。

 辞書を使わねば読めないようなとんでもなく難しい漢字を使うことは一種の知的劣等感である。シークレットブーツを履くのと同じ感覚だ。背が低くても自分の中身に自信をもっている人はそんなものは履かないように、人間も中身に自信を持てばやたら難しい漢字は使わなくなる。「小説教室」をカルチャースクールでやっている作家講師がみな口を揃える生徒の缺点も彼らがやたらと難しい漢字を使いたがる、である。いわばこけおどしだ。
 ネット上の文章でもいくらでも実例を挙げられるが好んで波風を立てたいわけではないので抑える。一例だけ挙げるなら、「ほだされる」なんてのは和語のいいことばである。これはひらがな五文字の中にやさしさがある。これに「絆される」と漢字を当てると、糸偏が強烈すぎる。「ほだされる」という「ほだす」の受身形を敢えて漢字で書くならそれは「立心偏」だろう。心や情に関することばだ。だがこの糸偏の漢字があるとこんがらがった糸のイメージが押し寄せてきて興ざめだ。「ほだす」の本来の意味が「つなぐ・束縛する」であろうと、別れようと思いつつ別れられない「女の情にほだされる」と使うとき、漢字はない方がいい。
 いずれにせよ難しい漢字を連発する人は眉唾物である。もちろん京極のようにそれを味としている人は別として、だ。売りにしているとわかっていても私は京極を体質的に受けつけないけれど。
 難しい漢字を連発する人に限って会話の中に英単語を交ぜる人を否定する人が多い。同じなんだって(笑)。いずれにせよ、「なにか」で、人を圧倒しようとする人は、中身のない人である。

 やたら難しい漢字を使う人は知的劣等感だが、どっちに読んだらいいかわからない漢字の使い方をする人は無神経である。
 漢字の使い方でその人の心がわかる。かといって「会社を辞める」を「会社をやめる」と書くと「辞める」を知らないのではと思われるから、私のような雑文書きは、画一化されたマニュアルが横行する社会で生きて行くのはけっこう面倒である。ま、「ビッグ」になれば問題はないのだろうが。
 好きな作家に、「あの作品では『あおい空』になってましたね」と言い、「ウン、どうしても青いでも蒼いでもなくて、ひらがなしかなかったんだ」なんて話すのは楽しい。

 と脱線してしまった。本題。
 高島さんは「とめる・やめる」に続いて、「止る」の例を出す。これは「泊まる」の意味らしく、「藤沢の旅籠に止る」のようにむかしの文章には多いのだとか。そしてこれは「とどまる」であるとする。「とどまる」だと「留まる」があるが、「止る」が主流だったという。今の時代「とどまる」を使うには「とどまる」と書くしかあるまいとして、中には「止どまる」とやる人もいるがこれは論外とする。
 送りがなの問題は深刻だ。私もまだ不徹底なので悩んでいる。ただ今の社会が、というかマスコミ界が、こちらが「終る」と書いても「終わる」に直してしまうのなら、こちらとしては高島さんの言うように「おわる」と書くしかない。これまた長年の習慣であり、なにも漢字で書く必要はない。「終わる」も「終る」も当て字でしかないのだから。

 毎週『週刊文春』を買って、電車の中、ラーメン屋、晩酌のとき、といろんなシチュエーションで『お言葉ですが…』を読むのが楽しみだった。その楽しみを奪ったキマタ編集長への恨みは深い。かといって不満を言いつつ読むのだけは我慢ならなかったから、今のスッパリやめている自分は気に入っている。
  1. 2005/09/12(月) 03:06:13|
  2. 漢字
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2001年に始めたサイトMone's World--http://monetimes.
web.fc2.com/の出張版ブログ【木屑鈔】Boku-setsu-shouです。
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メールは、moneslife2000
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