藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.結──「もっているひと」はちがう──全体を振り返って

shinyatokkyu

 沢木は26歳から27歳の時期、丸一年かけてのユーラシア大陸横断の旅をした。そして、ここがこのひとの一番賢く凄い点であるが、それを10年間寝かせておいた。すぐに本にしなかった。
 業界が注目する、言葉を換えれば「咽から手が出るほど欲しい」新進気鋭のライターである。物書き業界は芸能界以上のスター主義だ。スターをひとり造りだせば、それだけで業界全体が潤う。沢木は最高のスター候補だった。それが突如仕事を一年間も休むという。何をするかと言ったらアジアからヨーロッパへの陸路放浪の旅だ。それだけでも行天だが、それをやりのけて帰国した。そりゃもう旅行ネタは山ほどあるだろう。おいしい。出版社はすぐにでもこの「旅行記」を出したかったろう。早く書けと突っついたはずだ。

 だがこのひとは書かない。出さない。自分の旅を十年間寝かせた。熟成させた。二十代半ばの旅を三十代後半になってから文にしたのである。なんとも、賢い。そのことにより、より完成度の高い、すぐれた作品となった。若者の貧乏旅という安焼酎は、十年寝かせることによって味わい深い古酒(クースー)になったのである。


 
 あの絶妙の味わいの「深夜特急」を否定するひとたちもいる。それらは総じて「きれいすぎる」と言う。たしかに。
 旅をしたのは二十代半ばのまだ青臭い沢木のはずだ。もっと生臭くなくてはいけない。なのに……。それをきれいにまとめているのは三十代後半でずっと智識も智慧も増えたおとなの沢木なのだ。

 もしも帰国してすぐに二十代の沢木が発刊したなら、きっともっと生臭いものになったろう。それは生々しく未熟で完成度は低かったかもしれないが、後々のものよりも生命力に満ちたそれはそれでよい作品になったと思われる。沢木はそうはしなかった。それは沢木の美学に反する。十年間寝かせた。
 十年間寝かせたものだから、みょうに乾いてさわやかな作品に仕上がっている。よく言われることだが、これはノンフィクションではなくフィクションとして捉えるべき作品だろう。それがこのひとの賢人である所以だ。



 そうしてあの旅の終りに、パリの空港で、キャンセル待ちをするお忍び旅行の藤圭子とめぐり逢っていたのである。それが5年後に「インタビュー」という作品に繋がる。インタビューするひと、されるひと、ふたりの距離はこのエピソードでぐっとちぢまったろう。そうして藤の自死の二ヵ月後、34年後に『流星ひとつ』の名で発刊されるのだ。なんとも「もっているひと」はすごいなと思わざるを得ない。

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 『流星ひとつ』の中で、藤は沢木の一年間の旅を「なぜそんなことをしたのか」と問う。仕事が順調なのに、敢えてそれと距離を置き、自分の居場所がなくなってしまうかも知れないのに、一年間あてのない外国を彷徨うという感覚は、藤にとって不思議であり、同時に実は理解できていることでもある。自分がやりたいけどやれないことを、平然とやりながら生きているひと、前記した関根恵子が河村季里に惚れたように、藤の中で沢木の存在が大きくなって行くのが見える。

 晩年の藤は娘の稼いだ金で世界中を贅沢旅行で歩きまわっていた。あれも若いときに出来なかった沢木的な生きかたの実践だったのではないか。そう思われてならない。

 藤の死後、34年前の原稿を元に沢木が新刊を出し、それが藤の元夫を不快にした流れは、じつに興味深いものである。



 『流星ひとつ』の感想はひとそれぞれだ。否定するひとがいるのもわかる。たしかに、藤が死んでからの発刊には狡いと思うような面もある。
 私の感想は「出してくれてありがとう」だ。 読んでよかった、読めてよかった、になる。藤圭子の背負っていたものとは比ぶべくもないので書くのも恥ずかしいが、私もまた藤と同じく権力に頭を下げることなく「別に」の姿勢で生きてきた。どこにも阿ったことはない。藤は自分と一緒に「別に」と言ってくれるスタッフがいなかったことを悔しがっていたが、私が藤のスタッフだったら、彼女と同じく「別に」である。NHKが藤を紅白から落とした、いいね、じゃもうNHKとは縁を切ろう、である。もしもそういうことがあったら、藤も私も破滅したと思うが、それはまた別問題だ。
 そういう彼女の精神を『流星ひとつ』で知りえたのは、おおきな収穫だ。「Harvest」である。いろいろと評価は分かれたようだが、私の感想の結論は「沢木さん、出してくれてありがとう」になる。これが結び。以下、附録。


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 長々と書いてきた《藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考》だが、そろそろこの辺で筆を擱きたい。
 一応最初はまとまっていたのだが、途中から分列気味になった。すこしまとめてみる。



 書きたかったこと、まず藤圭子に関しては、

・1970年の社会的現象であったこと

 だ。ひとりの新人演歌歌手の話題ではなかった。それは五木寛之さんの造語である〝怨歌〟とか、それが逆の意味で伝わっていった流れとか、北山修と毎日新聞の深夜放送に関するウソとか、自分なりに記録できたと思う。

 【芸スポ萬金譚】に《なぜか突然藤圭子の「新宿の女」が聞きたくなった》というのを書いたのは2013年の1月14日だった。この7カ月後に彼女は自死する。ふと聞きたくなる彼女の歌は、私の場合これがいちばんだ。これからもきっと「新宿の女」は思い出すたびに聞くだろう。いま旅先だが、YouTubeのそれはしっかりDownloadして持参している。

 70年は安保の年だ。義塾も一年半のストに入った。創立以来いちばん長いだろう。授業に出ていないヤツも(というか授業がないわけだが)リポートで単位がもらえたのに、そこで留年している私はえらいな(笑)。だって学校に行かなかったからそうなったことすら知らなかった。

 藤圭子が「新宿の女」でデビューする1969年に武豊が産まれている。70年は羽生善治&羽生世代だ。あの年に産まれたひとに傑物が多いのは単なる偶然なのか。



 そしてもうひとつが、

・もうひとつの流星、石坂まさを

 である。藤圭子抜きに石坂まさをは語れず、石坂まさを抜きに藤圭子は語れない。ふたりは双子の巨大な流星だった。
 当然ながら石坂さんは、藤圭子以外にも、その後も五木ひろしを始めとする大物に曲を提供し、そこそこのヒットを出しているらしい。だから演歌に詳しいひとからは、「石坂の絶頂期は藤圭子の初期の4曲、あれで燃えつきた」には手厳しい異論をもらいそうだ。でも私のイメージがそうなのだからしょうがない。假りに数字を突き付けられたとしても、あの時代を生きた私のイメージだから、それは変られるものではない。
 たとえばポール・マッカトニーを「ビートルズ時代がすべて」と言うひとがいたら、熱心なポールファンは怒るにちがいない。でもあれだけの長年の活躍と創作活動を続けながらも、ポールがビートルズ時代以上にインパクトのあるヒット曲を送り出していないのもたしかなのだ。それと同じ感覚である。

 先日これを書きつつ検索して、YouTubeで藤圭子の「新宿の女」を聞いた。どこかのテレビ番組。和服を着て歌っていた。思いっ切りメロディをくずして歌っていた。いくつぐらいだろう、三十代半ばか。もっと上か。そこには五木さんの言った〝怨歌〟なんてカケラもなかった。ただの「歌の巧いおばさん」だった。やはり石坂まさをにしても藤圭子にしても、世に出る直前の光が独自の輝きとなったのであって、リッチになったふたりが失ったものも確実にあったように思う。



『流星ひとつ』に関しては、

・沢木と藤のパリでの出会いの衝撃

 に尽きる。これって言わばふたりのサイドストーリィであり、読者の私にはまったく関係ないのだが、私はこれに衝撃を受けて『流星ひとつ』購入にいたった。しかしまあ沢木さんは「もってる」。それを明かされたとき、もう藤圭子の目はうるるんだったのではないか。待ちつづけた「白馬に乗った王子さま」はこのひとではと思ったのではないか。いやはやノックアウトされたエピソードだった。



・書き足したいくつかの音楽話


 この「藤圭子&『流星ひとつ』考」は、日本を留守にするあいだに自動アップするように設定して書いた。去年1月の「大鵬話」と同じになる。「1話を1000字にして20回連載」の体裁で書きあげた。私が日本にいないあいだ、自動でアップされる予定だった。原稿用紙換算で60枚ほどの量。それを仕上げて異国に行った。

 ところが今回の異国生活前半は幸か不幸か私には珍しくWifiが通じるオシャレな地域だった。ま、オシャレもなにも今じゃそのほうがフツーなのだろうけど、恥ずかしながら私は初体験。ThinkPadもAsus MeMO Padも快適に繋がった。それで、よせばいいのにその「20回連載」を読み返してしまった。粗だらけである。己の醜さを見て汗を掻く蝦蟇状態。あちこち言葉が足りない。力がないからが基本だが、出発前に1ヵ月以上ブログ更新が途絶えるのも数少ない固定読者に申し訳ないと急いで書いたことにも因はある。それの直しを始めた。直せば書き足したくもなる。書き足せば削りたいところも出て来る。こうなるともう泥沼の堂々巡りである。「1回1000字」なんて約束ごとはすぐに破られ、あれやこれや書き足しての混迷状態となった。結果、26回の連載で合計140枚を越している。書き足した部分のほうが多い。

「いくつかの音楽話」とは、たとえばビートルズの「Abbey Road」、ニール・ヤングの「Harvest」、由紀さおりの「生きがい」、テレサの「つぐない」のあたりである。「別れの旅」「面影平野」もそれになる。
 これからインターネットのない山奥の世界に往く。せっかくオシャレな街に来ているのに、Wifiがあったがために「ひたすら日々『藤圭子論』の修正のみの生活」を送った。斎戒沐浴して日々精進の時間だった。もっと俗事に染まるはずだったのだが。それでも私なりの「藤圭子論」と「『流星ひとつ』の感想」を書けた。これはこれで貴重な思い出になるだろう。「大鵬」の時も思ったが、「書こう」と思った波が来たときに一気に書かないとあとではもう書けないのである。書けてよかった。長長のおつき合い、感謝。(完)
  1. 2014/08/20(水) 13:52:16|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.23──沢木耕太郎、藤圭子、パリでの初めての出会い

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 『流星ひとつ』を立ち読みしていた私が思わず背筋をゾクっとさせたのはふたりの出会いの箇所だった。
 インタビュー開始の時、「はじめまして」と藤が言い、沢木が「はじめてじゃないんですよ」と応じる。すぐに藤が「あ、先日のパーティで会ってるもの、初めてじゃないよね」と返すが、沢木は「いや、その前に会っているんです」と言う。


 
 インタビューする1979年から5年前のパリ。一年間の放浪の旅を終え、帰国しようとする沢木はアエロフロートのキャンセル待ちでパリの空港にいる。いくら安売りチケットとはいえ「他人名義」というとんでもないシロモノである。当時はそれが出来たらしい。パスポートチェックが無事に済めば、他人の名前の航空券でもチェックインできたらしいのだ。信じがたい(笑)。さすがの沢木も、「これでほんとに搭乗できるのか」と半信半疑でキャンセルを待っている。

 そこに三人の日本人がやってくる。中年の男性と娘ふたり。ひとりは日本人形のように整った容姿、肌がきれいだ。もうひとりのむすめもとてもかわいい。ひさしく外国を流離っていた沢木は、久々に見る日本人娘のきれいさに感激する。
 
 沢木も三人組もキャンセル待ちの状態である。だがその三人組は、ことばが通じず、待たねばならない現状が理解できないようだ。沢木はでしゃばりと思いつつも、同じ日本人として、日本語でそれを三人に説明してやる。三人もやっと納得する。



 その後のアエロフロートのキャンセル待ち搭乗は、沢木までで打ちきりとなる。沢木は乗れない三人を気にしながらも機上のひととなる。そうなってから、さっきの人形のようにきれいだった娘は歌手の藤圭子じゃないかと気づく。一年間日本を離れていたが、なぜあの大スターの藤圭子に気づかなかったのだろうと不思議に思う。
 パリの空港。藤圭子23歳、沢木耕太郎26歳、これがふたりの初の出会いである。(続く)
  1. 2014/08/14(木) 13:17:55|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.22──沢木の『流星ひとつ』を買うひと、とは

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 多摩センターの啓文堂で『流星ひとつ』を立ち読みしているとき、私に購入の意欲はなかった。沢木の新刊だし、そのうち図書館にはいるだろう。そうしたら借りて読んでみよう。それぐらいの気持ちだった。買うなら文庫本になってからでもいい。それだけ私の中でも藤圭子は過去のひとだったことになる。沢木耕太郎もまた全作品を読んでいるけれど、かといって新刊が出たらすぐに買う、というほどのファンでもない。ただ、どんな作品も、絶対に無視できないすばらしい作家ではあるけれど。
 
 ところが立ち読みで〝とんでもないエピソード〟を知り、思わず背筋がゾクっとするほどの興奮を覚えた。私は迷わず本を手にしてレジへと進んでいた。


 
 電車の中でも読み進め、インタビュー構成という読みやすいものだから、その日のうちに読了したのだが、ブログに感想を書く気はなかった。話題の芸能ネタであるし、作者は人気の沢木耕太郎である。ベストセラーとなり、そこいら中に感想があふれると思っていた。
 
 ところがそうでもなかった。さほど売れなかった。それほど藤圭子は過去の人なのだろう。テレビのワイドショーではどうだったのだろう。藤が死んだときには日本にいなかったでテレビは見られなかった。ワイドショーでは、この本を取りあげて、ふたりの恋愛関係にも触れ、テーマとしたりしたのだろうか。いまその種のテレビをまったく見ないのでわからない。



 過去のひとである藤圭子の1979年、34年前のインタビューを読みたいと、この本を購入するのはどんなひとだろう。
 まず「誰がなんと言おうと藤圭子こそ最高の演歌歌手。大好きだ、最高だ」という演歌ファンは、沢木のこんな本は読まない。こんなものを買う習慣がない。彼らは日夜自殺してしまった彼女の歌を聴き、一緒に歌って鎮魂する。

 演歌歌手・藤圭子のファンが買わないとしたら、誰が買うのか。購入者として考えられるのは、一般読者からマスコミ人にまでコアなファンを多数持つ沢木耕太郎だから、「沢木さんの本は全部好き。全部買う」というひとたちだろう。この本を支えたのは「藤圭子ファン」よりも、こういう「沢木耕太郎ファン」だろう。いわば「本好き」のひとたちである。



 ではそれらとはまた別の、フツーのひとで、この本を買うのはどんなひとだろう。と考えて、自分が典型的なそれであることに気づく。

 すなわち、1970年の「藤圭子現象」を知っている世代、ヒット曲だけではなく、社会現象としてのそれを体験していて、そこに思い入れをもっている人々、である。「五木寛之の造語の〝怨歌〟」なんてのを知っているのも一条件となる。
 それがどれくらいいるのかわからないが、ベストセラーにならなかったことを思うと、さほどの数でもないのだろう。いや、購入者の数よりももっともっといると私は思っている。でも私が彼女の死を知ったとき、感想というか当時の思い出を書こうと思いつつも、「ま、それぞれが心の中にもっていればいいことか」と諦めたように、本屋でこの本を目にしつつも、あるいは一度は手にしながらも、「あの当時の藤圭子の思い出はオレの心にあればいい」と購入しなかったひとも多いように思う。

 私も前記の〝とんでもないエピソード〟がなければ、すこし立ち読みして、懐かしいような物悲しい想いにとらわれた後、、「自分の心の中にあれば、それでいい」と、購入もしなければ、こうしてブログに書くこともなかった。



 世間ではどんな評判なのかとAmazonのブックレビューを読んでみた。みなとてもよく書けていて、上手な文も多いのだが、なんとも悲しいことに、それはみな「宇多田ヒカルのファン」なのだ。藤圭子は彼女の母親でしかない。もちろん当時の輝きなど知りはしない。これはいくらなんでも悲しい。藤圭子の死は藤圭子の死、なのだ。「宇多田ヒカルの母親の死」よりも前に「藤圭子の死」でなくてはならない。そのとき、遅ればせながら私なりに藤圭子を偲ぼうと思った。(続く)
  1. 2014/08/13(水) 13:16:46|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.20──l『流星ひとつ』と出会った多摩センター

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 私が『流星ひとつ』という沢木耕太郎の本を目にしたのは、初めて行った京王多摩センターという駅の本屋だった。啓文堂。2013年10月10日午後1時。藤圭子の自殺から二ヵ月ちかく経っている。
 
 多摩センターというのは奇妙な街で、駅前のあたりを歩いていると、まるでゲーム「SimCity」の一員になったかのような錯角を覚えた。もともとそういう理想の街を夢見て、なにもない地に未来的に開発されたものなのだろう。定木で引いた直線で作ったような人工物。あのときの奇妙な感覚はいまも覚えている。開発されたのはもうだいぶ前のようだし、長年あそこに住んでいるひとは、こんなことを言われても困るだろうが、私が初めて訪れたこの駅前で、SimCityの一員になったような錯覚で目眩がしたのは事実である。私にはとても住めない町だ。



 翌日、今度は板橋の大山というところを訪ねた。こちらも初めての町である。こちらは対象的に、細い路地がうねり、ごみごみした感じの、江戸時代の宿場町、女郎町として栄えた板橋宿の雰囲気がいまも残るようなところだった。ほっとする。ここなら住んでみたい。すこし住んだらすぐに馴染みの居酒屋が二、三軒出来るような親しみやすい感じを受けた。

 『流星ひとつ』を、その奇妙な感じを受けた多摩センターで買ったというのは私の中でワンパックになっている。藤圭子を、『流星ひとつ』を思い出すたび、「あの奇妙な街、多摩センターで買った」と思い出すことだろう。

※ 

「おっ、沢木の新作だ。藤圭子の本か」と立ち読みを始めた。まずはあとがきを読み、それが三十年以上前のインタビューであることを知る。今まで刊行されてない沢木の数少ない作品である。何年か前「沢木耕太郎全集」発刊時に初収録をしようかと思い、許可を得るために世界のどこかにいるはずの藤圭子の連絡先を探しまくったが見つからず、断念したと書いてあった。(続く)
  1. 2014/08/10(日) 13:09:19|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑲──「河村季里と関根恵子の逃亡劇」の影響??

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 『流星ひとつ』を読んでいると、育ちも、今まで歩んできた経歴も、すべてが異なる沢木と藤が、たがいにあまりにちがうからこそ、ことばを交しつつ、次第に惹かれあって行く様子がびんびんと伝わってくる。それを読みつつ「河村季里と関根恵子」を思い出した。

 あのころ雑誌「GORO」で作家・河村が女優との対談をやっていた。河村が人気女優に真正面から露骨なほどに性体験と、その現場を問う。女優もそういうものと承諾しての出演だから、腹をくくってペッドでの自分を赤裸々に語る。なかなかに刺戟的な人気企画だった。
 そのうちのひとりの関根と河村は恋仲になり、ふたりは岐阜の山奥で隠遁生活を始める。その暮らしは二年間ほどで破綻する。いや文明と縁を切ったかのような二年は充分に長かったと思う。
 だが芸能界に復帰した関根は、またしても主演の舞台を、開幕前夜に抛りだして行方不明となる。後に海外に逃亡したとわかる。同行した男は別れたはずの河村だった。当時、大きな話題となった。



 あのときの対談の雰囲気が『流星ひとつ』の沢木と藤に似ている。

 関根は北海道の田舎育ちで美貌の無学な娘である。15歳のとき映画「高校生ブルース」で主演デビュー。いきなりヌードになったことも話題になった。河村と対談したときは21歳ぐらいか。その前に「初体験は小学校6年」と発言していたが、この時の対談でそれが強姦であったことを告白している。立て続けにヌードになり奔放な女優と言われていた。いろいろと自分のありかたに悩んでいたらしい。
 河村は知的な作家(作品を読んだことがないので知らないけど)であり、博識な年上の男性である。32歳。

 互いに自分にはないものに惹かれあう。あのとき関根は河村に自分を導いてくれる光を見たであろうし、河村は光り輝く珠を掌中にした気分だったろう。そして突如芸能界を引退しての山中での隠遁生活。
 二年間のそれは、「関根の河村からの卒業」という形で幕を下ろす。

 河村と別れた関根は芸能界復帰する。まずは舞台に起用された。なのに主演舞台初日前日に失踪する。ひさしぶりの芸能界復帰、初の主演舞台の重圧にパニックになったのは解るとしても、こんなことをされたらたまらない。関係者、競演者は途方に暮れたろう。後にふたりはタイのバンコクに潜伏しているのをマスコミに発見される。まともなら芸能生命は終りだろう。
 しかし芸能界というのはそれを許してくれる。やがて関根はまた復帰し、出演作で知りあった高橋伴明監督と結婚する。ふたりのあいだに出来た娘は子供を産み、関根(現高橋)にはもう孫がいるというから、私はいまずいぶんと旧い話を書いていることになる。


 
 同じような形で、関根に似た環境に育ち、同じく好き放題のことをマスコミに伝えられながらもじっと耐えてきた藤28歳が、今まで出会ったことのない知的な男性として、沢木31歳に惹かれてゆく感覚が、『流星ひとつ』から、染みこむように伝わってくる。



 私は、関根の舞台放棄、河村とのタイ逃亡劇を伝えるマスコミ情報をリアルタイムで見聞した。当時、週刊誌やテレビの芸能ニュースも大騒ぎしていた。かといって今、詳細な時期まで覚えているわけでもない。今回確認して驚いた。この沢木の藤圭子インタビューがなされたのと同じ*1979年なのである。

 取材者と取材対象者の枠を越え恋愛関係に陥った藤と沢木は、先に藤がアメリカに行き、あとから沢木が追って、アメリカで落ちあうはずだった。しかし心変わりした沢木が渡米をやめ、アメリカにいる藤は梯子を外された状態になった、というのがふたりの「恋愛の顚末」として今も伝わる話だ。そして傷心の藤が知りあうのが宇多田だと……。

 沢木が翻意する理由に、「関根恵子の逃亡劇」は関係あっただろうか。
 当時の沢木は最高の伸びしろを期待され刮目されるノンフィクションライターとはいえ、まだまだ若手である。一方の藤は、何のかんの言おうと芸能的にはスターだ。衝撃のデビュー、社会的話題となったあのころから十年が経っている。しかも突然の引退で注目されている。もしもふたりのそれが実行されたなら、「引退した藤圭子は、アメリカで新進気鋭のノンフィクションライターと同棲中」と週刊誌やテレビの恰好の話題となったろう。この時点でテレビを見る多くの視聴者は沢木耕太郎なんて知らない。扱いは「関根恵子と河村季里」と同じである。そんなことをあの誇り高い沢木が受けいれるはずがない。

 河村季里・関根恵子の「愛の逃亡劇」と、スキャンダラスにそれを伝える芸能マスコミを見て、沢木が冷静になり、藤との恋愛をあきらめた、という解釈はなりたつだろうか。(続く)

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【追記】──*1979年について

  この文は最初「GOROで対談した関根と河村が恋仲になり、舞台を抛りだした関根がタイに逃亡したのが1979年」と書いた。しかしどうも心の奥の記憶がすこしちがうぞと囁いてくる。私の記憶では、《GOROで知りあった関根恵子と河村季里は、長野だか岐阜だかの山奥で文明とは懸け離れた生活を、2年か3年した後、それが破綻してふたりは別れる。関根は芸能界に復帰する。しかしそれがうまく行かず、またも仕事を抛りだして行方不明になる。関根と一緒に逃避行した男は誰かと思ったら完全に切れたはずの河村だった。しばらく後、タイのバンコクに隠れているところを芸能マスコミに見つかる。》となる。

 いろいろ調べてみたが、郄橋恵子が「河村季里」という名を自分史から消してしまっているので判りづらい。数年前、東スポに連載した自伝(語りを記者が構成したもの)でも、岐阜の山奥での生活は、自分ひとりでしたかのようになっていた。ここまで完全に存在を消されてしまうと河村が気の毒になる。でもそんなものか、世の中。
 とりあえず「1977年から79年まで岐阜県の山奥で晴耕雨読の日々を送っていた」とわかる。私にとってスキャンダラスなのはこっちだった。「関根恵子事件」というものがあるとすると、私には、「舞台放棄事件」よりも、突如引退して山奥隠遁生活を始めた1977年になる。

 79年に芸能界に復帰したが、またも舞台をすっぽかしていなくなる。後に発見されたのはタイだった。どうやら私の記憶にまちがいはないようだ。最初に書いたように「愛の逃避行」を1979 年にすると、山奥での隠遁生活はその後になってしまうのだが、そうではない。77年からふたりは岐阜県でそれをしていた。79年のそれはその後の話である。

 いずれにせよ沢木は、1979年の芸能スキャンダルであった「関根と河村のバンコク逃避行」も、その前の1977年の「対談をきっかけにして親しくなり、突如引退、山奥での隠遁生活」も知っていただろう。スキャンダラスに報じられたそれが藤と沢木の恋愛に多少は影響したであろうか、という話だから、年代はこれでいいことにする。 以上、すこし気になったので追記した。

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【補記】──つい先日、この当時の「GORO」で沢木も仕事をしていたと知る。となると、齢の近い同業者の河村と親しかった可能性もあるし、上の文を書いたとき私は、《沢木は「関根・河村事件」を芸能事件として、それなりに知っていたのではないか?》と推測したのだが、当時の「GORO」の執筆者だったのだから、もっと身近な事件だったことになる。それがふたりの破綻の原因かどうかはともかく、「関根・河村事件」を沢木が意識したのはまちがいないだろう。(2015/1/6)
  1. 2014/08/09(土) 13:08:11|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑱──沢尻エリカのふてくされた「別に」と、藤圭子の肝の据わった「別に」

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 このインタビューは、沢木が若かったのか、それとも意図的なのか、かなり彼の青い部分が出ている。たとえば「お金なんかいらない。お金なんかなくても暮らして行ける。あったらじゃまだ」のような乱暴な意見を沢木がいい、金銭で苦労してきた藤が生真面目に、「そんなことないよ、お金は大事だよ、お金はあったほうがいいよ」と応えたりしている。

 藤はこどものころ生活保護を受けていたことを言い、まったくお金がなかったから、祭りの後の寺社に出かけ、5円玉10円玉を拾えたよろこびを語っている。藤は28歳のこのころ、ろくでもない男に貢いでしまう自分、なんでもひとにあげてしまうことを語っている。「新宿の女」でデビューした頃はまだ処女であり、その歌の中身とは無縁だったが、21で前川と離婚してからは、もろに「新宿の女」の歌詞そのものの恋愛をしていることを吐露している。

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 仕事に関しても、沢木のほうが保守的な意見を言う。藤は「紅白歌合戦に落選した。おおいにけっこう。NHKは自分を必要ないと拒んだ」と解釈する。だから藤は「もうNHKには一切出るのをやめよう」と思うのである。ところがプロダクションの社長やマネージャーは「とんでもない」となる。なんとかまたNHKに出させてもらおうと頭を下げるのだ。そんな連中を藤はくだらないと思う。もしもそのとき賛同して、一緒に行動してくれるスタッフだったなら、自分の芸能人生もちがう展開になったはずと。

 藤の一本気な意見に、沢木が「NHKに出られなくなってもいいの?」と問う。その種の問いに藤が連発するのが「別に」なのだ。ここで沢木から「まったく、女にしておくのは惜しいほど男っぽい」という讃歌が出る。


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 「別に」と言えば近年では沢尻エリカである。しかしその30年以上前に「別に」の元祖がいたことになる。
 沢尻の「別に」は、映画「クローズドノート」の公開の場で出たものだった。司会者から感想を問われる。立場上そつなく受け答えすべき場なのに、そっけなく「別に」と応えたことから紛糾したのだった。

 沢尻はあの噴飯物の朝鮮映画『パッチギ』の、「かわいい朝鮮娘役」で名を成した。しかしまあよくもあの役に沢尻を起用する。きれいすぎる。あれは若作りした柳美里に制服を着せればいい(笑)。容姿的にもそのほうが適役だ。

 沢尻は、美貌のヒロインとしてすでにいくつもの作品に出ていたが、それなりの大作?の本格的主演はこれが初めてだったのだろう。今回調べて、私がレンタルヴィデオで見た「間宮兄弟」にも出ていたと知る。そうだったか。うん、出ていたな、そういえば。
 これは「パッチギ」で名を売った沢尻の勝負作だった。いかにもな芸能人なら、試写会の場で、涙を流して感激せねばならない。なのに「別に」だったから問題となった(笑)。
 その後一転して涙を流して謝ったりしている。だったら最初からやるな。いずれにせよガキのふて腐れの領域を出ていない。でも彼女もまた藤圭子に通じる「芸能界の体質と合わないひと」ではあるのだろう。



 藤圭子話とは関係ないが、この「クローズドノート」ってのはひどい映画だった。当時、あまりに腹立ったので怒りの感想文を書き始めたのだが、くだらんことにエネルギーを使うのはよそうとやめた。これがろくでもない映画だという持論を引っこめるつもりはないが、といってそれは沢尻の責任ではない。沢尻も竹内もきれいだった。満点だ。京都の町並みも美しい。その辺に問題はない。根本的な疑問は、そもそもこの物語が成立しているのか、ということにある。なんともアホらしい映画だった。原作はどうなのだろう。まともなのか。読んでいない。
 沢尻の作品ならこのあとの「ヘルタースケルター」のほうがずっといい。マンガのイメージをよく出している。


 
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 沢尻のそれと比すと藤の「別に」は肝が据わっている。
 藤が「別に」と応えるのはすべて前記のような他者との関わりの場面だ。藤は一歌手として素朴に歌って行ければいいと思っている。人気を得るために高視聴率のテレビ番組に出たいとは思っていない。大権威のNHKに阿る気もない。芸能雑誌に媚びを売る気もない。ドサ周りの演歌歌手として、そこそこ食える程度のものがもらえて、好きな歌が歌えればそれでいいのだ。マスコミの寵児でいたいと思っていない。マスコミなど信じていない。関わりたくない。ウソばかり書かれてきた。これからもウソばかり書いていろと突き放している。沢木が「そこまで言ってしまっていいのか」と心配するほどだ。

 このインタビューでは、沢木のほうが俗物に成り切り、上手にその藤の侠気を引き出している。
「芸能界を引退してだいじょうぶなの、お金入らなくなっちゃうよ?」
「NHKとケンカしてだいじょうぶなの、NHKに出るってすごく価値があるんじゃないの?」
「週刊誌を冷たく突き放してだいじょうぶなの、機嫌をとっておいたほうがいいんじゃないの?」
 俗的な心配をする沢木に、藤が連発するのが「別に」なのだ。「また出たね、得意の『別に』が」と沢木が苦笑する感覚でインタビューは進展して行く。

 それら、会話のあいまから、沢木が「女にしておくのはもったいない」と感嘆するほど筋の通った考えの一本気な藤に、次第に惹かれて行く様子もまたくっきりと見えてくる。(続く)
  1. 2014/08/08(金) 13:06:39|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑰──引退後、勉強したいと願う藤圭子

ryusei

 『流星ひとつ』の構成は、「沢木耕太郎が藤圭子にインタビュー」というよりも、ホテルのバーで酒を飲みつつ、ふたりの自然な会話のような形で進行する。そんな中、藤圭子が連発する「別に」が新鮮だ。

 沢木がこのインタビューを思いついたのは「なぜいま藤圭子が芸能界を完全引退する必要があるのか!?」という素朴な疑問からだった。藤はしばらくかつてのような大ヒット曲は出していないが、演歌歌手としては安定期であり、いわばいちばんオイシイ時期である。『流星ひとつ』でも28歳のいま、年収が5千万であることを明かしている。その環境を捨て、なぜそれほどに引退を急ぐのか!?



 そのしばらく前に沢木は藤と〝初対面〟している。藤と面識のある友人に頼み、パーティ会場でことばを交わしているのだ。そのとき藤は「引退しようと思っている」とつぶやいた。

 しばらく後に、テレビでの引退会見となる。それを見て沢木はインタビューを申しこむ。インタビュー嫌いの藤だったが、受けいれられて実現した。



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 この時点で藤は、今までさんざん経験してきた、毎回同じ事を聞いてくるインタビューというもののつまらなさ、あらかじめ結論を出していて、そこに誘導しようとする芸能マスコミのくだらない構成に呆れはてている。なのに沢木の申しこみを受け、沢木の著書「敗れざる者たち」を読んでその場に臨むのだから、互いに惹かれあうものが初対面の時からあったのだろう。読んできたことを藤が言うと、読んでくれたんだと沢木もうれしそうに反応している。最初から気が合ったのである。

 引退して、これからやりたいことを問うと、藤は「笑わない?」と確認してから、「勉強したいんだ」と語っている。アメリカに渡って英語を学びたいと。「遅いかな?」に、「そんなことはない」と沢木は励ます。

 藤は学校の勉強が出来たという。父母の手伝いでどさ回りをし、出席もままならなかったが、成績は4と5ばかり、3を取ったことはないと語っている。勉強が出来たのに進学できなかった彼女にとって、あらためて勉強したいというのはあたらしい世界への希望だったのだろう。そしてまた心底うんざりしていた日本の芸能界、マスコミと縁を切るために、アメリカを選んだのも自然だった。 (続く)
  1. 2014/08/07(木) 12:51:12|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑯─沢木耕太郎と藤圭子の恋愛

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 単行本「流星ひとつ」の構成は、ホテルのバーでの一夜インタビューのようになっている。ウオトカのソーダ割を飲みつつ、章タイトルを「火酒」とし、「1杯目(第1章)」「2杯目(第2章)」と進んで行く。インタビューは一夜限りのようになっている。むろん叮嚀な仕事をする沢木がそんな雑なことをするはずがない。そういう体裁、構成を取っただけで、実際には場所を変えつつ、長い時間を掛けて、何度もインタビューされて仕上げられたものだ。

 その何度かのインタビューというふたりだけの時間に、沢木と藤は恋愛関係に陥る。引退した藤がアメリカに渡ったのは、あとから沢木が来ることになっており、それを待っていたからだ。だが土壇場で沢木は心変わりし、渡米しなかった。
 傷心の藤は、後に宇多田と出会い結婚、娘ヒカルが生まれて、というのは長いあいだ囁かれている話である。



 今回この「流星ひとつ」を出したことにより、その話題は再燃した。沢木に確かめようとしたマスコミ人もいた。沢木は「当時お互いに惹かれあったのは事実」とまでは認めつつ、「でも恋愛関係(=肉体関係)にはなかった」のようなコメントを出している。
 
 その真偽を探る必要はない。それはこの「流星ひとつ」を読めばわかる。今回の出版に当たり、なにしろあの完全主義者の沢木耕太郎であるからして、原稿には相当に手を入れ、それらの痕跡は隠したろう。
「たった一冊の本」をアメリカの藤に送ったとき、それを読んだ藤が「あのあとがき、大好きです」と返事を寄こしたと、そのことには触れながらも、肝腎の当時のあとがきは、紛失したとして出していない。巧みとも言えるし、狡猾とも言える。

 この本が出た頃、それは卑怯だ、狡いと批難したブログ文を読んだ。たしかに肝腎のそこから逃げてしまっているのはずるい。といって正面切って出すことも出来まい。
 しかしそれでもここには「互いに出会ったことのないタイプ」として、もろに惹かれあう男女の息吹が色濃く漂っている。それで十分ではないか。新進気鋭のノンフィクションライターのインタビュアーとインタビューされる引退間近の芸能人、ではなく、互いに人生を語る恋人同士であることが、びんびんと伝わってくる。マスコミというものを信じず、芸能週刊誌にさんざんウソばかり書かれてきた藤が、「こんなひともいるんだ!」と沢木に惹かれてゆく様子が、沢木がまた、芸能界という特殊な世界なのに「こんな透明な感性をもったひともいるんだ!」と惹かれて行く様子が、痛いほどに伝わってくる。思わず、「おいおい、熱々だねご両人」と、グラス片手に見つめあっているふたりに嫉妬して茶々を入れたくなるほどだ。(続く)
  1. 2014/08/06(水) 12:48:56|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑮──出来上がった『インタビュー=流星ひとつ』が発刊されなかった理由

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 藤圭子の突然の引退表明を知った沢木耕太郎はロングインタビューを申しこみ、受けいれられる。
 沢木が常に考えていたことはノンフィクションにおける「独自の方法」である。藤に対するこれは「インタビューだけ」で構成し、タイトルもそのまま「インタビュー」とする予定だったとか。つまりこの時点で──それはプロとして当然であるが──沢木は引退表明した藤に興味を持ちつつも、同時に自分のあたらしい手法への実験も強く意識していたことになる。しかし時と場を変えつつ、彼女に何度もインタビューしている内に、引退の決意の変らない藤の決意、「女にしておくのはもったいない」とまで感嘆する藤の侠気と潔癖さに、『流星ひとつ』というタイトルを思いつく。


 
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 このとき沢木は31歳、藤28歳。それまで沢木はもうすぐ新聞連載が始まる「一瞬の夏」(私小説+ノンフィクション=私ノンフィクションと呼ばれた、あのボクサー・カシアス内藤との話ですね)を、連載開始前に完全に完成させてしまおうと全力投球していた。しかしすでに体験済みの話である「一瞬の夏」よりも、これからの話である藤との対談をまとめることに夢中になり、それを抛りだして、この「インタビュー」を仕上げようとする。

 500枚を超えるそれは完成した。発刊準備OKである。が、「ここまで芸能界及び芸能マスコミを批判しているこの本を出したら、彼女が復帰するときの障害になるのではないか」と沢木は、「藤のもしかしたらの芸能界復帰」を懸念して出版を断念する。それほどここで藤は、芸能界の体質、芸能マスコミのどうしようもない下衆な部分を厳しく批判している。



 一冊だけ作ってアメリカに渡った藤に送った。そしてこのインタビュー構成の作品は、2013年10月という藤の死の二ヵ月後まで34年間眠ることになる。沢木の唯一の未刊行作品である。実際に藤は、二年後に芸能界に復帰したから、藤が芸能界や芸能マスコミに対して厳しい意見を言っているこの本が出なかったことは、復帰のためには役だったろう。

 いま読んでも、じつに手厳しく芸能界、芸能マスコミを批判している。そしてまた藤の発言を支持する気持ちになる。それほどこの世界はいいかげんだ。私は週刊誌の記事のつくりかたにうんざりした。
 しかしそこまで批判しながら、藤はこのわずか二年後には芸能界に復帰するのだ。もしも『流星ひとつ』が発刊されていたら、藤の復帰は難しかったろうし、よりひどいバッシングを受けたろう。しかしまた、発刊されていたら、沢木との恋愛が成就していたなら、藤は芸能界になど復帰しなかったかも知れない。



 さて、沢木がこれを発刊しなかったのは、もしかして復帰するときのために、という「藤圭子のため」だけだろうか!?
 ふたりの恋愛は成就しなかった。沢木が藤を追ってアメリカに行かなかったからだ。約束を反故にした。
 沢木がこの本を出さなかったのは、「藤圭子のため」以上に、「沢木耕太郎のため」ではないのか。

 数年前、沢木は初めて出される自身の「全集」にこれを収録しようと思った。藤から了解をもらおうと探したが外国を放浪している藤が捕まらず断念した、という。これも「もう今ならこれを活字にしても、沢木耕太郎ブランドが傷つくことはない」という判断からだったのではないか。藤と沢木の恋愛はもう遠い過去の話だ。藤は母として宇多田ヒカルという傑物を送り出し、沢木も家庭を築きノンフィクションの雄として聳え立っている。今ならこれを世に出しても、藤も沢木も傷つかない、そういう判断での「全集収録」ではなかったか。



「なぜ今!?」と問われる34年後の出版を、沢木は、「流星ひとつ」の後記で、精神を病んで自死した藤の、病んでいない時代、透明な精神の時期を、藤のファンに、とりわけ娘の宇多田ヒカルに知らせたかった、と主張している。

 しかしそれはあまりに都合のいいキレイゴトではないかと、死後タイミングよく発売されたこの本に対する批判も生じる。ノンフィクション界の雄である沢木と、自死してしまった、かつて格別の光を放った演歌界のスターのインタビュー構成の本だけであるなら、そんな批判は生じなかった。だがふたりは、このインタビューをきっかけに恋人同士になっていた。それは誰もが知っていたことである。そのことに一切触れず、「透明な精神の時期を知らせたい」では、いくらなんでも、となる。ずるいという批判は当然のごとく起きた。 (続く)
  1. 2014/08/05(火) 23:00:41|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑪──あらためて、もうひとつの「流星」、石坂まさを

 『流星ひとつ』の中で藤は、「女のブルース」の歌詞にしびれるほど感動し、曲も最高で大ヒット中なのに、なぜそのさなかに「圭子の夢は夜開く」を急いで出さねばならなかったのについて触れている。沢木も「女のブルース」を絶讃し、なぜあんなに次の曲を急いだのかと問う。あの時期、不自然なほど立て続けに新曲を出している。それもまた結果的には「流星伝説」に彩りを添えているのだが……。

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 どうやらこれは作詩家・石坂まさをの個人的トラウマ?が優先された結果らしい。当時私も、藤のオリジナルが好きだったから、世間的にはあの「十五、十六十七と、あたしの人生暗かった」が話題になったけど、「あんなにいいオリジナルがあるのに、今さらなぜむかしの歌の焼き直しをするのだろう」と疑問だった。「夢は夜開く」は園まりでヒットした手垢の着いた過去の曲だ。なぜそれの焼き直しを新星の藤圭子がせねばならないのか、しかも、ヒット中のオリジナル「女のブルース」があるのに、なぜそんなに急いで出さねばならないのか。



 石坂のトラウマとは。
 「夢は夜開く」は競作だった。それは覚えている。当時いろんなひとが歌っていた。バーブ佐竹を覚えている。だいぶ後になるがフォークの三上寛も自分の詞で歌う。最終的な勝者──というかスタートからゴールまでぶっちぎりだったらしいが──は園まりだった。だがあれはもっともっと多くの歌手が作詩家が挑んだ、たいへんな競作合戦だったらしい。曾根公明がネリカンで採譜した歌い継がれてきたこなれたメロディに、多くの作詩家が挑んだ。その中のひとつに売れない作詩家である石坂も関わっていた。結果は大敗だった。石坂はそれが不本意であり、納得できるだけの詞を書けば自分のものが認められる自信があった。

 藤圭子という絶妙の素材を得て、石坂はもういちど挑んだ。それが「女のブルース」が大ヒットし、高い評価を得ているのに間を置かず「圭子の夢は夜開く」をシングルで出した裏事情である。その他、一番が、ギターだけの弾き語り風に始まるのが藤のアイディアであること、「昨日マー坊、今日トミー」の歌詞が藤の実話からインスパイアされて石坂が書いたことなどが『流星ひとつ』で語られている。

 結果として、あの大ヒットにより、「夢は夜開くは園まり」だった世間常識を、自分の作詞した詞の「夢は夜開くは藤圭子」に変えたのだから、石坂としては仇討ち成就の心境だったろう。


 
 藤圭子の師匠としての大成功により、石坂は演歌のヒットメーカーとして息の長い活躍をするものと思った。まだ二十代の若さであり、曲も書けるのである。なかにし礼や阿久悠のような存在になるのではないか。彼らのようなオールマイティの作詩家ではないが、なら星野哲朗のような、独自の分野の大家として名を成すのではないか。そう期待した。いや期待じゃなくて、もうそんなの決まり切っていることと思った。

 いま、石坂は一応歌謡曲史的には大物であり、Wikipedia的には「ヒットを連発」となっているが、前記の大物作詩家と比したら、短い頂点の流星であり、その頂点がが藤のこの4曲であったのはたしかだろう。



 売れない作詩家だった三十歳前の石坂が、藤という素材と出会い、それまでにつもりつもった情熱を爆発させ、すぐれた作品を連発し、一瞬にして燃えつきた、という感じが、私にはする。これまた〝怨歌〟だった。「十五、十六十七と、あたしの人生暗かった」は、藤よりもむしろ中卒で作詩家を志し、ここまで耐えてきた石坂の心境だったろう。
 演歌の作詩家であるから、本来なら四十代五十代にもっと熟した作品を出すはずなのだが、それもない。藤と一緒に燃えつきたひとのように思える。そしてそれもまた「藤圭子伝説」の一端を担っている。石坂が、ポップスの作詞までこなす器用な息の長いヒットメーカーとなり、いまも健在だったなら、藤の伝説もまた色を変えてくる。しかしそんなことはない。藤と石坂は双子の流れ星だったのだから。



 藤の自死を知ったとき、私は自分なりの藤圭子の思い出、あの衝撃の登場の時代を書いておきたいと思った。仲間うちでの読み物として、ホームページのほうにひっそりと書くつもりだった。数日が過ぎ、そんなことに意味はないかと書く気が失せた。しかし二ヵ月後、緊急発刊された沢木の『流星ひとつ』を読んで、やはり書いてみたいと思うようになる。そうしてさらに半年餘の時をおき今こうして書いているのだが、最初に書きたいと思ったときから、常に心を占めていたのは〝もうひとつの流星〟石坂まさをのことだった。それをここに書いたので当初の目的の半分は達成されたことになる。



 当時、藤圭子の師匠として二十代の石坂さんの写真を初めて雑誌で見たとき、「漫画家の赤筭不二夫に似ているな」と思ったことを覚えている。ネットで探したが若い頃の写真は見つからなかった。でもこの写真からも雰囲気は感じてもらえると思う。

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 2013年3月、藤と同じ年に亡くなっている。訃報に接し、藤はコメントを出したのかと探したが見つけられなかった。それは私が検索下手だからでもあるが、たぶん出していないと思う。そのほうがいい。燃えつきた流星同士、お決まりの形式的なコメントなどないほうがいい。(続く)
  1. 2014/07/27(日) 13:22:18|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑧──もうひとつの「流星」、石坂まさを

 藤圭子を、芸能界を一瞬にして席巻し、巨大な光を放ちつつ、あっと言う間に流れ去った「流星」としたのは沢木の秀でた感覚だが、藤を流星とするなら、私は同時に「石坂まさをというひとも一瞬の輝きの流星だった」と思わずにはいられない。「藤圭子」を語るなら、私は彼女の初期の大ヒット曲を作詞し、一部は作曲も担った「石坂まさを」を語らずにはいられない。



 藤圭子を語るとき石坂まさをを語るのは常法だ。「一緒に世に打ってでた戦友」「最高の楽曲を提供した師」として、石坂抜きに藤圭子は語れないほどである。
 この文を書くのにネット検索したら、晩年の石坂は糖尿病から失明し満身創痍の状態だったとか。そんな中でも口述筆記で自伝を書いていて、その内容には「藤圭子母子に送る壮絶な檄文」とか、そんな形容がされていた。途中で亡くなってしまったので、いまのところ発刊の予定はないようだ。

 大ヒット曲を連発した藤と石坂は、やがて藤人気が鎮静化し(とはいえ演歌歌手はこれからが営業でまだまだオイシイ)、藤が専属のRCAを離れるときに縁を切っている。このとき石坂は「藤の移籍料」として数千万円を受けとったことが『流星ひとつ』で暴露されている。弟子の巨額の移籍料を師匠が懐に入れるのだから、この辺もキレイゴトの世界でないことがよくわかる。もっとも、その後にまた交友は復活したらしい。藤圭子というひとは、同じ男と結婚離婚を繰り返したり、常人にはわからない不思議な感覚をもっている。



 私が石坂に関して触れたいのは、そういう藤圭子の「師匠」や「戦友」としてではなく、ごく純粋に「シンガーソングライター石坂まさをの短い絶頂期」についてである。気分としては「藤圭子とは無関係に、シンガーソングライター石坂まさをの……」としたいが、さすがにそれは無理な気がする。藤圭子という素材を得ることによって石坂の才気が世に出たことは否定できない。なにしろペンネーム「石坂まさを」を使い始めるのも藤の作品からなのだ。悪声でありレコード会社に受けの良くなかった藤に注目したのも石坂の慧眼だ。やはり別々には語れない。しかしまた藤圭子の歌唱を抜きには語れないが、あの時期の石坂作品が最高の輝きを放つすぐれた演歌作品であることもまた絶対的事実だろう。前述した「女のブルース」は、藤の歌唱、猪俣の曲の良さもあるが、歌詞その物としても高い完成度を誇っている。

 あの時期、藤圭子という歌手を発掘し、コンビを組むことにより、作詞作曲家石坂まさをも、巨大な光を放った。それ以前の無名の時期、その後の凡庸さを考えると、石坂もまた流星だったと思える。



 藤と石坂を「デビュー前から同居」と書いたが、もちろんふたりは男と女の仲ではない。当時の石坂は27歳の売れない作詩家だった。まだ27歳ではあるが中学を出てからずっと作詩家を志して活動してきたから、それなりに年数を積んでいる。一応レコード会社の専属作詩家の地位は得ていた。ヒット曲はまだない。それが流しをしていた藤と出会い、惚れこみ、自分のボロ家に同居させ、自分の作品でのデビューの日を夢見るのである。同居は藤の母親も一緒だった。



 この「藤と石坂の初めての出会い」に関しても、クールな藤は『流星ひとつ』で伝説の定番を否定している。石坂がたびたび口にしていた、「流しをしている藤と劇的な出会いをし、衝撃を受けた。この娘にかけようと思った」のような発言を、「石坂さん、よくそう言うけど、その前に会っているんだよね」と暴いているのだ。といってそれは、絶縁した石坂のウソを暴くというような趣ではない。嘘をつくことなく、正直に、ありのままに生きたい藤圭子として、「石坂さん、あんなつまらないウソついてんだよね」と笑いとばす感覚だ。


 
 石坂のボロ家に同居してデビューを目指す、石坂・藤師弟だが、麗しい師弟愛ともまたちがうことが『流星ひとつ』で披露されている。石坂は女癖が悪く、女と見ると誰でも口説き、口説いた娘の隣に母親が居たら、それも口説き、それでいて口説いたことすら忘れるというとんでもないひとだったらしい。藤にも「ちょっと疲れたからあそこのホテルで休んでいこうか」と誘ったりしたとか。藤は「よくあの家にいて無事だった」と笑って回想している。それはなにもなかったからこその回顧だったろう。藤の初めての男は後に結婚する前川清だと言われている。後にごたごたしたとき、藤の父親もテレビでそう喚いていた。
 私はこどものころ貧しかったとかいうことよりも、マスコミに載せられ、あることないこと記者会見で喚いているこの父親を見たとき、しみじみと彼女の不幸な育ちを思った。金銭ではない。家族愛として。

 二人の結婚は、23歳と19歳の演歌界のスター同士の結婚である。これはすごいことだった。この時期にスターのふたりが一緒になるというのは聞いたことがない。
 いまも思い出すのは、私の周囲の藤圭子の大ファンがこの結婚を心から祝福していたことだ。「前川ならいい」と。(続く)
  1. 2014/07/25(金) 10:00:22|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑦──藤圭子のヒット曲「新宿の女」から「京都から博多まで」

 藤圭子は47枚のシングルを出している。それはWikipediaのこちらで確認してもらうとして、私にとって彼女の歌は「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲であることは書いた。

 それはWikipediaの項目からも推測できる。ここに登場する歌手や役者、監督等は、作品名の羅列があり、それなりの成果を上げた作品は、さらにそこから作品毎の項目にリンクされている。藤の曲も上記4曲はすべて青文字となってリンクされているが、その後はしばらく途絶える。だから異様なほどのブームがこの4曲で一息吐いたというのは私個人の感覚のみではなく数字的にも裏づけがあるのだろう。


 
 その後の彼女は、デビュー前から同居し共に歩んできた石坂まさを作品ではなく、あらたな作品提供者を探すことになる。そして当代一のヒットメーカー阿久悠の詞を経て、ひさびさに「京都から博多まで」がヒットする。
 なかにし礼の作品を歌ったり、「面影平野」では、阿木燿子・宇崎竜童コンビの作品を歌ったりしている。でもやはり上記4曲がすべて、と私には思える。

 なお上記の「リンクされているヒット曲」は、4曲目の「命預けます」のあと、1年後に石坂作詞の「みちのく小唄」というのがあり(私はこの曲を思い出せない)、その7カ月後、1972年1月に新路線で阿久悠に詞を頼んだ「京都から博多まで」がある。自分が「みちのく」を知らないからというのは強弁だが、藤圭子という歌手は、シングル4枚目、1970年1月の「命預けます」のあと、1972年1月の11枚目のシングル「京都から」までヒットが途絶え、これが最後のヒットになったと言えるだろう。「京都から」の後、1979年に一度引退し、1981年に復帰し、1997年10月の「男と女」まで47枚のシングルを出しているが目立ったヒット曲はない。

 私にとって藤圭子は、1969年9月の「新宿の女」から1970年7月の「命預けます」まで、一年弱の4曲がすべてなのだが、世間的にも彼女は、ヒットを出したのは1972年の「京都から」が最後の「活躍時期の短い歌手」と言えるだろう。



 『流星ひとつ』の中で、藤が「女のブルース」が大好きであり、それがまだヒットしているのに、なぜ「夢は夜開く」の発売を急いだのかわからないと語っているのが興味深い。(続く)
  1. 2014/07/23(水) 13:21:20|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑥──マスコミのウソ、正反対のことを書くという怖さ

 当時最高のベストセラー作家である五木が、これまた社会現象とまでなっていた藤圭子について語ったから、この発言は話題になった。週刊誌がそれを取りあげた。

 ところがそれは「怨みの歌で怨歌」と、五木の造語「怨歌」を前面に出し、藤圭子特集を盛りあげたまではよかったが、五木のことばをまったく逆に、「彼女の怨みは、これからますます増して行くだろう」と紹介していたのである。実際にラジオで五木の語りを聞いたものとして、「それはちがうよ!」と思った。「逆だよ」と。
 よくぞこんな逆のことを書けるものだとおどろいた。マスコミって信用できないんだと学んだ最初である。それまでの私は「マスコミは真実を伝えるもの」と思っていた。

 ところがタイムリーな五木造語の「怨歌」がひとり歩きを始め、誤りである「怨みはますます増して行く」のほうが定番として取りあげられてしまった。そりゃあ飛ぶ鳥を落とす勢いの藤圭子の「怨歌」の「怨」が、「もうすぐ消えて明るくなります」よりは、「益々怨念を深めて行く」としたほうが世間的にはおもしろいのだろう。五木は後々も自分はそうは言っていないとそのことを主張したが、転がり始めた雪達磨をとめることはできなかった。おそろしいと思った。


 
 深夜放送がブームになり、あたらしい若者の流行と話題になっていた。深夜番組をもっていた元フォークルの北山修が、そのブームに関し、「深夜放送が若者の傷口の舐めあいになってはいけない」と語っていた。これもしっかり自分の耳でリアルタイムで聞いた。
 ところが深夜放送を特集した(当時我が家で取っていた)毎日新聞には、北山の発言が「深夜放送は若者の傷口の舐めあいなんです」と語ったことになっていた。もちろん北山も次週の放送でそれを弁明し反論していた。しかし世間には毎日新聞の記事のほうが伝播力は遙かに強い。

 田舎の高校生が、マスコミはこんなことをするんだと学んだ二題である。



 そのころの時代、当時のスターへの想い、そこにいた自分への郷愁は、ひとそれぞれであろう。私の場合は、この「藤圭子」と「五木寛之の発言」と「まったく逆のことを報じたマスコミ」が三位一体となっている。「マスコミは信じられない」と教えてくれたのが「藤圭子」であり「五木寛之」だった。だからこそ藤圭子は私にとって他の演歌歌手とは異なる存在になる。

 ここで芽ばえたマスコミ不信が、日教組にすりこまれた自虐史観からの脱却に繋がって行くのだが、それはまだまだ先のことになる。(続く)
  1. 2014/07/19(土) 12:37:20|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考⑤──五木寛之の藤圭子論──〝怨歌〟という造語

 当時「オールナイトニッポン」が皮切りとなり深夜放送ブームが始まっていた。私もニッポン放送の「オールナイトニッポン」の機関誌「ビバヤング」を送ってもらい毎晩それを聞きつつ受験勉強していた。

 そのころ、たしかTBSだったと思うが、五木寛之が藤圭子について語っているのをリアルタイムで聞いた。五木は「これは演歌というより、彼女の生きてきた道から生じる怨みの歌、〝怨歌〟ではないか」と彼の造語である「怨歌」を披露し、「彼女の中にある怨みは、歌手としての成功とともに薄まり、やがて歌の中からも消えて行くだろう」と推測し、彼なりの「藤圭子論」を語っていた。藤圭子の経歴は、浪曲師の父と盲目の母に着いて、幼い頃から地方を流れあるいて唄っており、極貧の中、中学校も出ていない、ということになっていた。



「流星ひとつ」の中で、藤は中学をきちんと卒業していること、勉強が得意で成績はみな4と5ばかり、3を取ったことがないことを語っている。運動は苦手だが、それも筆記試験で稼いでしまうので4以上だったとか。
 またそれはどさ回りのあいまにも勉強したりする努力の結果ではなく、教室で教えてくれることはすぐに頭の中に入り、それが試験に出るのだから出来て当然のようなことを語っていることから、藤の明晰な頭脳、記憶力のよさがわかる。こういうきちんとしたひとには、理窟ではないアバウトな芸能界は辛かったろうなと感じた。



 私は五木の意見をなるほどと感心して聞いた。藤圭子は、森進一と青江三奈という、それまでは悪声と呼ばれていた先輩ふたりの成功がなければ世に出なかったと言われている。彼女はまず歌手としてすぐれているのだから成功は当然なのだが、爆発的な人気を得、社会現象にまでなったのは、その美貌としゃがれ声のアンバランス、不幸な育ちという背景も強く関係していたろう。成功とともに「怨歌」の「怨」は薄れて行くという五木の論は、田舎の高校生にも納得出来る意見だった。(続く)
  1. 2014/07/18(金) 13:20:42|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考③──一瞬の輝き、「藤圭子」という名の流星

 世間的には数数のヒット曲を誇る藤圭子、となるのだろうが、私には「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲になる。この輝きの時期が私にとっての藤圭子だ。

「新宿の女」の発売が1969年の9月、「命預けます」が1970年の7月だからその間は1年もない。さらにはデビュー曲「新宿の女」は最初からはヒットせず、年明け発売の2曲目「女のブルース」、3曲目「圭子の夢は夜開く」のヒットと、それによる「藤圭子というまだ十代の新人歌手の独特の凄味」みたいなものが社会的事件となり見直されて売れだした曲だから1969年はカウントされない。となると、私にとっての藤圭子は、1970年の2月から8月という半年間だけになってしまう。巨大な輝きの流星だった。

 Wikipediaより。

ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。


 まだ十代の新人歌手、それも演歌歌手のアルバムが、こんなとんでもない記録を残している。まさにそれは社会現象だった。巨大な流星だった。



shinjukunoonna
 私は4曲の中では「新宿の女」が一番好きだ。他の曲がネオン演歌らしいいかにもなマイナーメロディであるのに対し唯一のメジャーである。じつは原詩は石坂まさをではなく他のひとであり、石坂は「補作詞」であることを今回「流星ひとつ」を読んで知った。と書いていて、そういうことをあの当時芸能雑誌で読んだことを思い出す。忘れていたことが次々と浮かんでくる。
 
 藤圭子は演歌歌手でありレコードの売りあげ以上に営業(地方公演等)が大事だから、関係者にとっての頂点の時期はこのあとになる。注目される新人の時期は給料も安い。演歌歌手はヒット曲が日本国中に染みわたってからがおいしい。何十年か前のヒット曲をたずさえて地方興行をしている、忘れ去られたかのようなひとが、いまも年収何千万であるのはよくある話だ。山本譲二、細川たかし、瀬川瑛子、枚挙に遑ない。

 「流星ひとつ」の対談時期は、藤が引退を表明した28歳の時であり、当時の藤にヒット曲はなく、前記したようなヒット曲を歌っての地方興行が中心である。藤は現在の年収が5千万前後であることを明かしている。沢木は、それほどの恵まれた状況にいながら何故いま引退なのか、をテーマに迫る。

 しかしあの時期を一緒に生きたものとして、藤圭子の輝きは、私にはあの4曲が出た半年間になる。その感覚は彼女自身にもあり、咽を手術した24歳以降は「もうあたしの声じゃない」と語っていて、惰性のようなものであったから、ここでスッパリ辞めたいというのは、私にはわかる感覚になる。しかし芸能界と演歌の特性を考えたら、ヒット曲で地盤を築いた「これからがオイシイ時期」なのだ。なのになぜ引退なのか。(続く)
  1. 2014/07/16(水) 12:31:50|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考②──「17歳」の価値

shinjukunoonna

 私が17歳のとき、藤圭子も17歳でデビューした。デビュー曲「新宿の女」が出たのが1969年の9月。一般的にはそれほど話題にならず、年明けから売れ始めたようだが、当時深夜ラジオを友にして受験勉強に励んでいた私は、発売の頃からよく耳にしていたし、妙に心に残る曲だった。
 
 同じ17歳だと思った。テレビもラジオもそう言っていた。雑誌にもそう載っていた。後に1歳年上と知る。事務所の都合で18歳なのに17歳にされたとか。潔癖症の彼女はそれがいやでいやでたまらなかったという。19歳で前川清と結婚するとき公称年齢を訂正している。この結婚もすごかった。今ならありえない。

 売りだす事務所やレコード会社の感覚からすると18歳よりは断然17歳のほうがいいのだそうな。「流星ひとつ」の対談で沢木耕太郎も「ぼくも(関係者だったら)17歳にしたかも」と語っている。


 
17sai
 この2年後にデビューする南沙織のデビュー曲は「17歳」。筒美京平がリン・アンダーソンが唄った「ローズガーデン」をパクった曲だ。このとき南沙織はまだ16歳。ラジオからキャッチコピー?であるらしい「16歳の南沙織ちゃんは『17歳』でデビュー」と頻繁に流れてきて、ローズガーデンの「I beg your pardon」と同じメロディの「だーれもいない海」が続いた。

 筒美京平はパクりの天才だが、カトウカズヒコやオータキエイイチのように、アレンジから何から何まで一緒で「そのままじゃん」というパクリはしない。上手に彼流にアレンジする。しかしその中ではこれは出来の悪いものだ。「ローズガーデン」のヒットが新しかっただけに、このパクリは誰でも気づいた。

 格別の南沙織ファンでもなかった私は、この辺の事情を知らなかったが、今回Wikipediaを読んだら、「デビュー前の南沙織に、得意な歌はなにかと問うたら、ローズガーデンなら歌えるというので、それを基本にして筒美が曲を書いた」のだそう。偶然似た曲を提供したのではなく、始まりからして計算尽くなのだった。



17saiha
「17歳」と言えば、南沙織よりもずっと前にヒットした高田美和の「十七歳は一度だけ」がある。当然のごとく誰もが「17だけじゃなくて18だって19だって、60だって70だって一度だけだよなあ」と言っていた。かように「17歳」は特別なものらしい。(続く)
  1. 2014/07/15(火) 13:19:53|
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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考①──仁川空港で知った藤圭子の死

歌手の藤圭子さん自殺か マンションから転落死

2013.8.22 12:17 

 歌手の藤圭子(本名・阿部純子)さん(62)が22日朝、東京都新宿区西新宿のマンション敷地内で倒れているのが見つかり、病院に搬送されたが死亡したことが警視庁への取材で分かった。自殺とみられる。

 藤さんは歌手の宇多田ヒカルさん(30)の母親で、「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で知られる。(msn産經ニュース)

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 2013年9月10日午前10時。韓国仁川空港。無料サービスWifiにThinkPadを繋ぐ。60日ぶりのインターネット。こういう時の常でまずは「訃報」と入れて検索する。この60日のあいだに何事も起きていないことを願いつつ日附順に一覧の名を追う。好きなひとの死も目にするが、高齢の大往生には納得する。
 
 8月22日の欄に藤圭子の名を見つける。瞬時に自殺かなと思う。関連ニュースを検索する。飛降り自殺のようだ。同世代の彼女が死んでしまったことを淋しく思ったが、ここのところの流れから「やっぱり」でもあった。精神が不安定とされる彼女の状態が伝えられてひさしい。すっかり過去の人となった彼女のたまに流れる話題はその奇行だけだったと言ってもいい。



 私が高校生の時、彼女はまさに一世を風靡した大スターだった。あのときのブームはすごかった。それから十年、28歳で引退してアメリカに渡る。芸能界の体質にうんざりし、もう絶対に復帰はしないと言っていたが、やはりというか2年後には芸能界に復帰した。しかしもう以前の輝きはもどらなかった。そのままずるずると居て、消えいるように過去の人となった。

 このひとの輝きの時期は極めて短い。私には「新宿の女」で始まり、「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲、一年足らずの活躍がすべてだ。しかしその時期の輝きと光輪の大きさはいまだ誰も越えていないと言える。その後は海外での奇行や同一人物との結婚離婚が目立つ程度の典型的な「あの人は今」的存在だった。

 ところがここでまた藤は甦る。母親と同じく突如彗星のごとく登場した「宇多田ヒカルの母」として。しかしそれもまた一瞬のことだった。やがて今度は海外旅行で大金を浪費する奇行が話題となる。現金4千万を押収されたとか、その現金に麻薬が附着していたとかのスキャンダラスな話である。
 宇多田のコンサートに飛び入り出演して「夢は夜開く」を歌ったといういいニュースもあったが、多くの宇多田ファンにとっても、彼女はあまり好ましい母親ではなかったろう。



 彼女の死を知ったとき、私はすぐに彼女へのレクイエムを書きたいと思った。「藤圭子」は、あの時代を語るとき素通りできない重要人物である。
 世に溢れる多くのひとの語るそれは「宇多田ヒカルの母」としてのものであり、だからこそ私のような世代が「宇多田ヒカル以前の藤圭子」を綴るべきであろうと思った。だが多くのひとにとって「宇多田ヒカルの母」であり、でしかなく、ここまで過去の人なら、それはその時代を知っているひとが、それぞれの胸の中にしまい、あえて綴る必要もないかと思うようになる。



ryusei

 藤圭子が自殺して二ヵ月後、沢木耕太郎が『流星ひとつ』を出版した。1979年、引退を決めた28歳の藤圭子へのロングインタビューだ。インタビューだけで構成された異色作である。
 これを読んで、やはり私なりの「藤圭子」を書こうと思った。(続く)
  1. 2014/07/14(月) 12:27:53|
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THE MANZAI 2011──不快なカットイン──無意味なゲスト顔の挿入

THE MANZAI 2011──不快なカットイン──無意味なゲスト顔の挿入

いやはやひどかった。初期のK1中継を思い出した。おもしろいものを、よくぞここまで不愉快に演出できるものだ。さすがフジテレビである。
  1. 2011/12/20(火) 05:46:08|
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叶姉妹の芸歴26年(笑)──触れられたくない真実──デヴィ夫人

【芸スポ萬金譚】叶姉妹の芸歴26年(笑)──触れられたくない真実──デヴィ夫人

朝っぱらからこんなこと書いて、なにやってんだ、おれ……。
  1. 2011/11/14(月) 06:53:48|
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「小林よしのりのAKB48讚歌」に追記

「小林よしのりのAKB48讚歌──裸の王様は誰?」に、「もしも設定が逆だったら?」を追記しました。


http://blog.livedoor.jp/moneslife/archives/51644031.html
  1. 2011/08/15(月) 10:59:09|
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役者・高岡蒼甫の心意気!──応援するぞ!!!

山本太郎という、母親絡みで8年前からグリーンピースを支援しているという、とんでもない反日分子が反原発で注目を浴びる中、こちらにも期待の新星が飛び出した。その名、高岡蒼甫。



高視聴率だったNHKの大河ドラマに主演したのが女房で、そちらの方が高名らしいのだが、私は大河ドラマなんて見たことがないので知らない。
いや見たことはあるんだ。ほんの数回。最初は、え~とね、地味な劇団俳優の緒方拳てのが秀吉役に大抜擢されたってとき。食うや食わずの貧乏役者がとんでもない大役を射止めたと話題になっていた。
あとは、歌舞伎の尾上菊之助って美男が源義経を演じるってとき。思いっきり悲劇の美男に描かれたわけだけど、司馬遼太郎が「義経はチビで出っ歯の醜男」とアサヒシンブンに書いていたことが印象的だった。念の為に書いておくとこのひとは寺島しのぶの父ちゃんね。それ以降、大河も紅白も見たことがない。朝ドラは一度も見たことがない。ま、ほんの40年前の出来事なんだけど、私も一、二度、大河ドラマを見たことはあるわけだ。

私はとても頭がよくて物知りで(笑)、たまにクイズ番組を見るとどんな難問もすらすら解けてロザンの宇治原以上の正解率なのだが、バカバラエティでやる「NHKの朝ドラに主演した女優の名を5人あげよ」とか「昨年の紅白に出場した歌手の中で」なんて問題だけはお手上げ。まったく答えられない。見てないのだから知るはずもない。しかし民放って大河ドラマとか紅白の話、好きだよね。本家のNHK以上に。なんで? 国営放送に敬意を払ってるの?
この役者のことはまったく知らなかった。より有名らしい女房も知らないのだから当然だ。



この高岡蒼甫という29歳の役者が、フジテレビの異様な朝鮮崇拝に苦言を呈した。役者はみな河原乞食。電波芸者だ。なのに勇気ある発言である。山本太郎のそれには政治的な思惑が見えていたが、高岡の場合は、ごく素直に本音が出たという感じで好感が持てる。

韓流「洗脳気持ち悪い」高岡蒼甫つぶやく

 女優宮崎あおい(25)の夫で俳優の高岡蒼甫(29)が、自身のツイッター上でフジテレビと韓流ブームを過激批判し話題になっている。23日に「8は今、マジで見ない。韓国のテレビ局かと思うこともしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」とツイートして以来、26日までに「洗脳気持ち悪い」「嫌な物に媚び売ってまで活動しない」「骨抜きだよ、今の日本人は」「干されることによってみんながこの悪しき流れに気付くなら本望」などと発言をエスカレートさせている。
 また、この騒動で妻の宮崎との間に亀裂が生じていることも明かしている。26日「本人が書いてくれと言っているので書きます。家の妻は自分と一緒の思想ではありません。火の粉が飛ぶのは勘弁です。と。はぁ、家出ようかな」とつぶやいている。
(日刊スポーツ)

しかし「俳優の高岡蒼甫」と書かれる前に「女優の夫で」と書かれるのは屈辱だろうなあ。芸人とはそんなものとは思いつつも。



そのことをツイートした。

taka1






taka2







taka3






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というところに、「香川照之」に関する質問がツイートされたので応えたのが以下のもの。私も役者としての彼のファンだったので、南京事件をスキャンダラスに扱い、針小棒大に取り上げた中共プロパガンダ映画に染められ、反日分子になってしまった香川には失望した。不快過ぎてここには書く気になれないようなひどい発言をしていた。

しかしまた当然とも思うのである。役者とはそんなものだ。反日クソ映画「パッチギ」で、笹野高史が日本人に虐められて苦労したという設定の朝鮮人役を演じていたが、あのときの彼は日本人を憎む朝鮮人になりきっていたろう。しかしまた立場が違う誇り高い日本軍人を演じる時があったなら、それはそれで彼はその役に成り切ると思う。役者はそれでいいのだ。名優とはそんなものだ。
香川のそれには落胆したが、そうでなければあんな役は演じられまい。まあ心ある役者なら最初からあんなオファーは受けないと思うので、彼がもともとそんなたぐいであった可能性も高いのだが。

taka4

taka5






ビートたけしの意見は、役者というもの、芸人というものに関して、正論だ。ただしこれは、たけしがポツネンとつぶやいたものではない。たけしは、反体制を粋がる愛川欽也のような俗物に対するアンチテーゼとして、こういう発言をしたのだ。芸人なんてのは所詮そんなものなのだと。
その基本に、むかし蜜月、いまは不仲になった大橋巨泉のもったいぶった発言があったのはまちがいない。愛川とか巨泉は典型的な「芸人は反体制でなければならない」という時代錯誤人間だ。それはそれでいい。電波芸者が食ってゆくポーズとして、ありだ。そういう時代だった。それがもてはやされた。だがいつしかそれは形骸化し「反体制というポーズのための反体制」になっている。たけしはそういうものとはちがうレベルに踏み込んだ。巨泉と不仲になるのは当然だった。



フジテレビというのは、本来開局の目的からして保守陣営のものだったはずなのだが、なにゆえ、あんな醜悪な局になってしまったのだろう。経営者、株主、いったいなにがあったのだ。不勉強なので(というかテレビに興味がないので)知らないけれど、いくらなんでもあまりに朝鮮に阿っている。

そんな中、高岡蒼甫という29歳の役者のフジテレビ批判は、私には一服の清涼剤だった。サッカーに興味のない私には、なでしこジャパンの世界一よりも、はるかに希望的な出来事だった。日本の若者にも、まだまだ骨のある奴はいる。希望は目の前を明るくする。しみじみと気分の良くなる出来事だった。

高岡蒼甫、がんばれよ。応援している日本人は山といる。まっとうな日本人はみな同じ事を思っている。

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【附記】──「パッチギ」に出ていた高岡蒼甫

高岡は前記の反日映画「パッチギ」に朝鮮人役として出ていた。いまだ顔は思い出せないが。だってあの映画、腹立って不愉快で見ていられなかったから(笑)。

とすると、中共の南京事件映画に出て支那贔屓になった香川照之のように、高岡がこの映画や井筒に感化されて反日の自虐史観に染まってもおかしくなかった。しかし彼は逆に目覚めた。やはり骨のある青年のようだ。



【附記.2】──フジテレビの株主比率

フジテレビの外国人株主比率が20%を超えているとツイッターで流れている。そのことが異様な韓国番組の放送につながっていると。
しかしフジテレビはもともと日本の有志が、そういう意志で作ったテレビ局だ。フジサンケイグループである。假に外国人の株主が20%になり、放送内容にまで影響を及ぼすようになったとするなら、真っ向からそれに反対する勢力もまた動き始めるはずなのだが……。

問題は外国人株主20%ではない。日本人株主80%にある。
  1. 2011/07/27(水) 02:42:16|
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Korean-Japanese──都はるみと山口百恵という傑物

純な朝鮮人の犯罪者が英語圏で「Korean Japanese」と表記されることに釈然としない。私にはこういう表記にはいわゆる混血、ハーフのイメージがあるからだ。でも識者によると異民族が帰化した場合、こういう表記になるようだ。納得せねばなるまい。

それよりも問題は日本のマスコミにある。外国ではこうして報じてくれるからまだいいのだ。すくなくともこれで純な日本人でないことはわかる。日本ではこの「Korean」の部分を報じない。わかっているのにだ。通名で報道する。一部のひとはあちらの情報を得たりして確認できるが、ほとんどのひとは知らないままになる。悔しい話だ。
残虐な犯罪には驚くほど高確率で朝鮮人が絡んでいる。力道山から大山倍達、いまにいたる挌闘家のあのひとこのひとまで、逆上すると見境がつかなくなるタイプが多いのだろう。



私としては「Korean Japanese」という表記は「父が朝鮮人、母が日本人」のひとを指すのに使って欲しいのだが、それは無理な願いのようだ。
この形の混血の傑物に都はるみと山口百恵がいる。
いま発売中の『オール読物』で五木寛之と浅田次郎が対談している。その中で五木がのマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」を聴きつつ、都はるみとジャズの話をしたことを開陳している。都はるみはビリー・ホリデイに憧れジャズを歌いたがっていたという。うまかったろうなあ。聴いてみたかった。まあ英語の発音に問題はあろうが、そういうものを超越したうまさのはずだ。あのひとは天才だ。
山口百恵を平岡正明は「菩薩である」と言った。色白のきめ細かな肌、胸はちいさい、ウエストは太い、豊かな肉づきの尻と太腿、足は大根足、日本の強くやさしい母のうつくしさである。まさに菩薩だ。類い稀な存在である。



朝鮮民族と大和民族の血が結合すれば1+1が3にも4にもなる一例だが、ほとんどの場合は、1-1になっている場合が多いのは残念だ。
  1. 2011/07/25(月) 21:00:23|
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ロンブー淳の政界進出に賛成

私はロンドンブーツ田村淳の政界進出に本気で賛成しています。
http://blog.livedoor.jp/moneslife3/archives/51641714.html
  1. 2011/06/11(土) 09:39:19|
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アントキの猪木アントニオ小猪木ジャイアント小馬場長州小力

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 アントキの猪木が活躍すればするほど消えていったアントニオ小猪木があわれになる。かといってジャイアント小馬場はそうでもない。あくまでも猪木模倣ふたりの問題。


 長州小力、アントニオ小猪木、ジャイアント小馬場は予測できたが、アントキの猪木という名は新鮮だった。小猪木が先立ったから苦し紛れとも思うが。


 しかしまあ長州力を知らない長州小力ファンがいて、なにより当の長州力が息子や娘が小力の真似をするので不快になり、真剣に落ち込むという一時期があり、やがて居直って、一緒にヴァラエティ番組に出て笑いをとり、そのことでまた人気が復活するという、いろいろあらーなの世の中。


 でもアントキの猪木とレーザーラモンHGのふとももはえらい。あれはきちんと作ってある体だ。


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【附記】 ご近所


 アントキの猪木が私と同じ茨城県の霞ケ浦近辺の出身と初めて知った。
 茨城は茨城なりに広く、たとえば日立のほうだともう福島に近く、まったく親近感をもたない。同じく下館なんてのも栃木に近く遙か彼方の感覚。
 だが彼の現かすみがうら市稲吉というのは、私の家からクルマで30分ほど。田舎的にはご近所である。茨城時代、クルマでここまで走り、最寄りのJR駅から上野に向かっていた。
 郷土意識は希薄な方だがなんとなくうれしい(笑)。


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【附記・2】 日本語は難しい


「小猪木が先立ったから」
 いやいやアントニオ小猪木はご存命。「先だった」を「先立った」と漢字一文字違えるだけで他者を故人にしてしまう非礼。日本語は難しい。

  1. 2008/03/06(木) 03:37:44|
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黒人演歌歌手デビュウ──曲がよくない

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黒人演歌歌手のジェロに歓声 (スポニチアネックス)


 米国出身の黒人演歌歌手、ジェロ(26)のデビューイベントが20日、東京・渋谷の外資系CD店「HMV」で行われた。


 同所で演歌歌手のデビューイベントが開かれるのは初めて。今月に入ってテレビの計30番組以上から出演依頼が来るなど話題沸騰中とあって、会場は限定120人のファンに加え、報道陣70人で超満員。

 神奈川県内に住む兄マイケルさん(35)夫妻も駆けつけた中、デビュー曲「海雪」を持ち前の甘い歌声で披露。得意のヒップホップダンスを交えての“歌って踊る演歌”という斬新なパフォーマンスも公開。故吉田正氏作曲のカップリング曲「東西南北ひとり旅」では滑らかにコブシを回し、流ちょうな日本語で「皆さま、手拍子をお願いします」。と目を潤ませた。


 この日の発売日にはカセットと合わせ計8万3000枚を出荷。オリコンデイリーチャートにも16位で初登場。


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 黒人演歌歌手という仕掛けはおもしろいし、この青年にも好感を持つ。やたら日テレが押していて、経歴やキャンペーン風景を流していたので、デビュウまえからみょうに詳しくなってしまった。


 ただ、この「海雪」という歌は、彼らしい新味を出そうと練られた曲だからなのだろうが、今風J-Popの早口の歌詞があったかと思うと、いきなり演歌風にまったりしたりして、本来の演歌ファンが親しめるものではない。衒った奇が実を結んでいない。かといって若い世代がよろこぶものでもない。中途半端なろくでもないものだ。


 素材としておもしろいのに、もったいないと思う。あんな曲なら彼が大好きだという「夜桜お七」(これを唄ってNHKのど自慢に合格したとか)のカヴァーでもしたほうがよほどいい。
 ま、勝負は次の楽曲の出来具合だ。(投稿予約原稿)

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  1. 2008/02/23(土) 10:13:25|
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なだぎの連覇──R-1グランプリ

00-geino
R-1グランプリ

◎なべあつ ○なだぎ ▲芋洗坂係長
この予想は絶対的自信。しかし断然の本命サイド。なべあつ、なだぎでは馬単でも2倍だろう。裏も同じ。2点買いで元取り。でもダークホースの芋洗が頭になると2着がどっちでも馬単がつく。8倍ぐらい、いけるか? そんな感じ。
でも、なべあつが圧勝と思っていた。


なべあつはおもしろかったけど、どんな斬新なネタも何度目かになると慣れてくる。昨年暮れほどのインパクトはなかった。今回は、なだぎのほうがおもしろかった。なだぎの「ファミコンマイク使用→ハウリング」は、以前にも見たがまだまだ笑える。あれ、すぐにハウるんだよな。「ゼルダの伝説」で、耳のでっかい怪物を、あのマイクに怒鳴って倒すってのがあった(笑)。


なだぎはディラン役で昨年R1を取り、さらには友近のキャサリンを巻き込んで「徹子の部屋」に出るまで出世したが、あれはNHKを見ている人だけのネタ。見ない私にはすこしもおもしろくない(笑)。その点、今年は誰にもわかるネタでがんばっていた。


ということで、テレビを見ていたら、予想は◎なだぎ、○なべあつになった。断然なだぎの連覇である。
だがそこで芋洗がやってくれた。ジプシーキングネタは切り札だ。わからないヤツにはわからない。ヴォラーレ(笑)。「ジンギスカン」は定番だが誰がやってもおもしろい。2ちゃんねるにアサヒシンブンをからかう秀逸な映像があったっけ。


芋洗が関西系の審査員に受けるかどうか心配していた。特にハッポウ。でもあれなら大丈夫だろう。勝負は写真判定。よくそこまで持ち込んだ。


結果なだぎの連覇となった。芋洗ファンからは不満の声が挙がっているが、これでいいんじゃないかと思う。
M1もR1も毎回審査に若干の不満が残るが、なんとか納得できる結果になってくれるから助かる。ブラマヨは笑い飯に4対3でかろうじて勝った。あそこで笑い飯になっていたら、私はもうM1は見なくなったろう。あれは7対0でブラマヨが勝つべきだった。(やはりカンペイとハッポウの点数で芋洗は負けていた。でもまあこれはいい。)


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鳥居やあべこうじとか言いたいことはあれこれあるがそれはホームページで書こう。
なだぎの連覇と芋洗の検討を祝す。

  1. 2008/02/17(日) 18:26:20|
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清水健太郎復帰

00-geino歌手で俳優の清水健太郎(55)が31日、都内で記者会見を開き、芸能界復帰へ向けてアピールした。
これは1月18日に受診した特定薬剤に関する尿検査の結果が陰性だったことを受けてのもの。清水は劇画家の村上和彦らの支援のもと、今後も一カ月ごとの定期検査を行うことを条件に、芸能活動を再開するとしている。


「4度逮捕され、2度も懲役に行った人間が芸能界に復帰させてもらえるなんて奇跡。これも周囲の皆さんの後押しあってこそ。俺がどん底にいるとき、一番大切だと痛感したのは“仲間”だった…この一言に尽きます。また仲間を裏切ったら、もう俺はおしまい。これが最後の賭けだと思って臨みます」

今後の予定としては、年内に現在25巻で完結しているオリジナルビデオシリーズ「首領への道」シリーズの再開と、劇場公開作のクランクインを目指しているという。

「5月11日で出所から2年、服役期間を含めると4年になります。この日を俺の“再出発の日”にしたいですね。身の回りをガラス張りにして、誰が見ても“クスリをやっていない”という環境を整え、いい映画を作っていきたい。そして、失った信用を取り戻していきたいと思います」

また、歌手としての活動も視野に入れている。
「今月12日に入院してノドのポリープを手術します。その後はボイストレーニングを積み、ディナーショーで歌います。ジャス主体の大人のショーでね」
芸能活動とも平行して、講演などを通じて依存性薬物の危険性を訴えていきたいとも語る。

「若いやつらが今、軽い気持ちで手を出しているのが気になります。20歳を過ぎたら自分の責任だけど、20歳前なら指導しないといけない。やめろと言えばやりたくなるのが人間。でも、それが子どもには分からない。やった過去は仕方がない。でもハマるなよと、俺みたいになるなよと伝えていきたい。体験してきた俺の言葉は、やったことのない警察官や裁判官の言葉よりも重たいはずですからね」

http://npn.co.jp/article/no/46342820/

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>若いやつらが今、軽い気持ちで手を出しているのが気になります
 おまえはどうだったんだ。重い気持ちだったのか。

>20歳を過ぎたら自分の責任だけど、20歳前なら指導しないといけない
 二十代、三十代、四十代、五十代のときにやっているおまえの場合は誰の責任だ。指導は必要か。

>やめろと言えばやりたくなるのが人間。でも、それが子どもには分からない
 だからおまえは五十になっても分からなかったわけで。

>やった過去は仕方がない
 それは他人に言ってもらうことで、あんたが言っちゃならない。

>俺みたいになるなよと伝えていきたい
 だから、あんたに言われても……。

>体験してきた俺の言葉は、やったことのない警察官や裁判官の言葉よりも重たいはず
 自信満々だな。
 軽いと思うよ、何度も同じ失敗を繰り返す人の言葉は。

 毎回毎回刑務所から出てくるたびに同じ事言ってる。
 次はいつだ。

あいた口が塞がらない

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【附記】
 これは数日前に書いたものを「時間指定投稿」という自動投稿システムでやってみたもの。実験品。今後それを使うことにする。
 これなら時間のあるときに書きためておけば一日一項ずつの投稿が出来る。今の「日に三項もあるかと思うと数日投稿なし」よりもよいことだろう。だが時間差があるので補稿が生じる。よって附記。

 更正しようとする人は見守らねばならない。こういう彼を受け入れる芸能界を甘いと批判する気もない。
 ただ、今までさんざん同じ事を繰り返してきた懲りない罪人なのに、いくらなんでも言うことが立派すぎるだろう。私が抽出した偉そうなセリフは、ヤクザ映画でも歌でもなんでもいいが、それらの仕事で社会復帰して何年も経ち、誰からももう大丈夫と保証されたとき初めて口に出来ることだ。これから第一歩を踏み出す人が言うべきことではない。そこに彼の人としての甘さがあると批判されてもしかたあるまい。

  1. 2008/02/06(水) 19:00:16|
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母はいつまでも──ロザンナの息子、三田佳子の息子

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 ロザンナの29歳になる息子が大麻吸引で捕まったとか。
 そのこと自体はどうでもいい。よくある話だ。だいたいが今時ヒデとロザンナなんて誰が知っているんだ。
 言いたいのは、その朝ぐうぜん見たむかしの映像の残酷さ。

 その日の朝のワイドショーで、「ロザンナと三田佳子の対談VTR」を流していたのだ。(正しくはレポーターロザンナの三田インタヴュウかな。)

 だいぶ前のものらしい。ふたりが若い。すくなくともその内容、会話から、三田の息子が捕まる以前のものだとわかる。このVTRの存在を知ったスタッフは「やったあ!」と思わずガッツポーズだったろう。最高の組み合わせである。またふたりの会話内容がいい(笑)。

 ロザンナが「お子さんは、息子さんがふたりいるんですよね。もうお姉さんみたいなお母さんですね」とおべんちゃら。
「いえいえ」と言いつつ、満更でもなさげに、三田も餘裕でそれを受け入れる。
 このときふたりは将来「犯罪者の母同士」として、この対談が流れるとは思いもしなかったろう。

「子供がいくつになっても母は母ですものねえ」とロザンナ。三田も「ええ、死ぬまで母親ですよね」と応じる。ほんとにそうだわね、あんたらは。

 スタジオに戻って、ムロイユヅキが「犯罪を犯した息子はもう29歳なんだから、ロザンナさんのことを出さなくてもいいんじゃないですか」と憤慨しつつロザンナ側に立った発言。先の発言と照らし合わせるとなんとも皮肉。
 ムロイには他人事ではない。ゲンイチローと作った息子がなんかやったら、この映像が流れるだろう。

 芸能人はこういう過去の映像が残ってゆくからこわい。
 オースミケンヤにあたらしい恋人が出来たら、コヤナギルミコとのあのベタベタした気味の悪い映像、結婚式での何分ものディープキスとかが、これでもかというぐらい流れる。気の毒である。彼と恋愛する女はそれを超えねばならない。

---------------

【附記】
 私の中で「ヒデとロザンナ」は評価が低い。それはヘタだったからである。ヘドバとダビデの「ナオミの夢」が流行ったころ、二人がそれを歌ったが、ヘタで聴けなかった。ま、日本人男とイタリア人女の組み合わせという際物としか思っていない。
  1. 2008/02/06(水) 12:05:22|
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ドロンジョにフカキョン

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ドロンジョにフカキョン


「ヤッターマン」が実写になるそうだ。さとう先生のブログで知った。どういう流れなのだろう、おもしろい企劃である。「ゲゲゲの鬼太郎」の実写版の成功等が背景にあるのか。


この種のもので印象的なのは実写版「シティハンター」。きれいだったなあジョイ・ウォン。引退してしあわせにやっているようだ。彼女ももう40か。26歳のジョイ・ウォンを見たくなった。借りてこようか。


>実写版の配役は、ドロンジョ=深田恭子、ボヤッキー=生瀬勝久、トンズラー=ケンドーコバヤシだそうです。深田恭子は未知数ですが、生瀬、コバとくれば、もうこれは成功したも同然、という気がします。


と、さとう先生が書いていたので、思わず「『下妻物語』は見ましたか」とメールを出した。「深田恭子は未知数ですが」に反発したのである。すぐに先生が返事をくれた。


>「下妻物語」は以前見ました。面白かったです。かわいかったですね、フカキョン。僕は下妻という地名を知らなかったので、見る前はなにか奥様は18歳的な内容だと思い込んでいました。


だろうねえ、茨城出身のぼくはもちろん下妻を知っていたが、筑波山麓のあの地味な町が映画のタイトルになるとは想像できず、同じく「奥様は」的な内容かと思っていた。
下妻に目をつけた嶽本のばらはさすがという気もするけど、実際はそんなりっぱなことじゃなく、京都出身の彼(彼女?)からしたら関東の片田舎ならどこでもよく、その字面から選んだだけだろう。あまりに茨城っぽい田舎と景色が代々茨城のものとして気恥ずかしかった。


そういや嶽本はマリファナで捕まってからまったく表に出てこなくなってしまった。せっかく「さんま御殿」等でおねえキャラで売り出していたのにもったいない。やはり逮捕されるとテレビメディアには出られなくなるのか。

捕まっても捕まっても出てくるのは清水健太郎ぐらいか。そろそろまた覚醒剤をやるころだ。今度やると何度目だ、六度目か?
「失恋レストラン」でのレコ大新人賞。泣くものと決まっていたのに笑顔で「親父、やったぜ!」とガッツポーズの園田巌君。あたらしい風景だった。あのころはまだレコ大を見ていたのか。出身は「銀座NOW」。あの番組からは小堺一機、赤熱トム(笑)、清水アキラ、柳沢慎吾とずいぶん活躍者が出ている。と、もっともっと出身者はいるけど、彼らの名を挙げたのは初出場を見ているから。


>想像力が不足している僕は、ドロンジョは夏木マリか真矢みきくらいしか頭に浮かびませんでしたが


うん、これは想像力不足だねえ。どれぐらい不足かというと、ぼくもドロンジョ役で真っ先に夏木マリを思い浮かべた。それぐらいの想像力不足だ(笑)。


夏木マリは五十を過ぎてからバンドに目覚めた。昨年は若者が集うロックフェスティバルにまで出ていた。あれは勇気が要る。年ではない。経歴だ。内田裕也ならブーイングは出ない。でも夏木ならその可能性は高い。受けていてよかった。
ヴォーカリストは不安だ。あがる。それを支えるのはバックメンバーとの連帯。うしろで見守ってくれている斉藤のぶとの恋愛はよくわかる。お互い初婚なのもいい。彼らが世に出てきた三十数年前を思い出す。パーカッショニストで凄いのがいると斉藤のぶが話題になったのは「絹の靴下」夏木の二年後ぐらいだったか。
ぼくも今からでもまたバンドを組もうかという勇気を夏木からもらった。


>かわいすぎるフカキョンというのも面白いのかもしれません。本来の設定では、ドロンジョは24歳だそうですし。


ドロンジョは24歳ですか!? 知りませんでした。
映画館にまで行く予定はありませんがDVDになったらしっかり見ようと思います。邦画が元気なのはいいことですね。


 

  1. 2008/01/26(土) 17:22:55|
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SoftBankのヤナギハラ

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 SoftBankのヤナギハラ


 


ヤナギハラカナコという藝人がおもしろいのかどうか知らない。興味がないのでテレビで見ている分にはどうでもいい。あの芸風が楽しめないのが時代遅れだというならよろこんでそう呼ばれる。とにかくどうでもいい。


ところがよく行く近所のSoftBankにそっくりなのがいる。現実のヤナギハラと話すとなるとまた感想も違ってくる。
体型から声、話しかたまで同じなのである。あの声は体型から来るのだろう。しかも顔がヤナギハラよりさらにひどい。色黒のブスである。つまり色黒ブスのデブになる。そしてあの声、あの話しかた。
「いらっしゃいませえ、今日はどのような? あ、料金のお支払いですか、はい、わかりましたぁ。それではこちらに電話番号をお書き下さいぃ、あ、なにか身分証明書をお持ちでしょうかぁ」を、ヤナギハラ口調で色黒デブブスにやられるとコバカにされている気分になる。


隣駅の違う店に行くことにした。

  1. 2008/01/18(金) 15:18:14|
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M1バブル──サンドウィッチマン露出全開

00geino
 M1バブル──サンドウィッチマン露出全開


 


予想されたとおりM1で優勝したサンドウィッチマンがテレビに出まくっている。
今回の敗者復活戦からの無名藝人優勝というのは、M1の今後にとっても、とてもよいことだったと思う。


意外なのはM1中継局のテレ朝より日テレのほうが多いこと。でも彼らが全国放送で出演したのは「エンタの神様」が初めてだったから当然か。プロデューサは自分の先見の明に酔っていることだろう。とにかく日テレがずいぶんと押している。


彼らが長年一緒に住んでいる練馬区のアパートは何度も紹介されたが、今日は最寄り駅の大山駅前での凱旋パレードなんてお遊びをやっていた。
商店街の人たちから握手を求められる。
「エンタの神様に15回出ているんですけど、こんなの初めてです」とM1優勝のおおきさを語っていた。


M1でのふたつのネタはすでに「エンタの神様」で全国放送されていたものだった。それでも新鮮味があって優勝できたのは、ふだんはコント仕立てのものを漫才でやったからだったろう。あの「客と勘違い店員のズレ」は十八番で、私はガソリンスタンドネタが好きである。

審査員が「このネタを聞くのは三度目なんですが、それでもおもしろく」と言うことがある。関西の藝人に対してだ。私が優勝者のネタをふたつともすでに知っていたというのは今回が初めてだった。
ブラックマヨネーズやチュートリアルの優勝ネタもすでに知っていたらあんなに笑えなかったろう。ブラックマヨネーズが「このネタで優勝戦を争おう」と、あのネタを半年間封印したという話はとてもよくわかる。いい話だ。「身を守る格闘技として相撲を習ったら」の場面など、いま思い出してもおかしい。「熊を飼え」も。


M1優勝で露出度が増えてうれしかったのは、こちらでは見ることのなかったますだおかだやブラックマヨネーズだった。
その点サンドウィッチマンは、もちろん売れてない藝人だから私生活は謎だったけれど、顔自体はブラマヨ等と比べたらずっと馴染んでいた。


宮城県出身の友人K君は、吉本所属でない、仙台商業高校卒の彼らの優勝が我が事のようにうれしく(彼もまたいま練馬に住んでいるので)大山駅前に出かけたそうだ。


(この文章はお仕事で朝昼のワイドショーを見られないM1ファンのさとう先生のために書きました。)

  1. 2007/12/29(土) 05:57:48|
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M1──サンドウィッチマンが優勝!

00geino
 M1──サンドウィッチマンが優勝!



 M1でサンドウィッチマンが優勝した。私にとってこの番組はブラックマヨネーズのように、関西では有名だが関東では無名の実力者を知るものだったから、自分の知っている関東の無名芸人が一気に優勝する珍しいパターンになった。
 本文はホームページで。


------------------------------


●連絡事項
 有馬記念敗戦記は書く予定はありません。気力がわきません。
 東京大賞典が当たったら書くかも(泣)。

  1. 2007/12/24(月) 06:40:48|
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2001年に始めたサイトMone's World--http://monetimes.
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メールは、moneslife2000
@kpe.biglobe.ne.jpまで。

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