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●ことば──「弁える」という表記の愚
《Wikipediaではやたらに不要な漢字を使うひとが多い。「弁える」がよく出てくる。くだらん漢字使用だ。いきなり「弁える」と出てくると思考が停止する。「〝弁える〟 なんだこれは? ああ、わきまえるか」と、ほんの一瞬ではあるが、そうなる瞬間がわずらわしい。しかも、そもそもその文中に「わきまえる」という日本語が必要とは思われない。唐突に登場する。このひとは「弁える」と書きたくて無理矢理使用しているのではないかとすら思える。》
というようなWikipediaの文章批判をブログに書いたままほうりだしていたのでその続き。
※
高島俊男先生の『お言葉ですが…』の初期のテーマに「全部ベンの話」というのがあった。何巻のどこかはあとで記入するとして、以下はそのとき覚えた話。ノートに手書きして「ベンの字」の区別を覚えたものだった。以下は引用。とはいえ手元にいま本はない。でも覚えているので書ける。教えて頂いた恩に感謝しつつ、先生の御健勝を祈りつつ、思い出し引用。
敗戦後、当用漢字制定により多くの漢字が使用停止となり同じ音の字で代用されるようになった。「ベン」の字はその代表例。
辯──しゃべるという意味──雄辯、辯護士、
辨──区別するという意味──辨別
辮──編むという意味──辮髪
瓣──花びらの意味──花瓣
辧──とりしきる──辧公室
弁──冠、帽子の意味
これらの意味のちがう漢字をみな最後の「
弁」で統一した。なんとも乱暴な話である。よって、弁護士、弁髪、花弁と、本来は別々だった「ベン」の字がみな「弁」になってしまった。
「わきまえる」に当てられていた漢字は「区別する意味の
辨」である。もともと和語の「わきまえる」に「辨」を使うことが当て字であり意味のないことなのに、その字を使用禁止にして、まったく意味の異なる「弁」を使ってまで「弁える」なんて使うのは滑稽でしかない。「わきまえる」でいいが、どうしても漢字を使いたいなら「
辨える」にすべきだろう。いまはこうして表示できるのだから。
高島先生が漢字に関して一貫して主張しているのは、「やたら漢字を使いたがるひとは無教養、過剰に横文字(カタカナ英語)を会話に入れるひとと同じ」である。渡来語という虎の威を借りて自分を大きく見せようとするのだ。ところが日本人の漢字崇拝というのはまだまだ根強い。文章に「わきまえる」とカナで書いたら「弁える」と書けないと思われるのだろう。しかし「弁える」に「わきまえる」の意味はないのだ。弁は冠とか帽子のことなのだから。
※
と、ここまで書いてきて、「これ、同じ事をむかし書いたな」とやっと思い出した(笑)。サイトを調べてみると、
《『お言葉ですが…』論考──智弁なのに日鐵》と題して書いていた。2001年11月20日の文だからちょうど13年前になる。中身は前半がここと同じ「ベンの字のちがい」について、そこから「テレ東が
智辯学園を
智弁にしていたのに、
新日鐵という会社名は
鉄ではなくしっかり正字の
鐵で表示していた。なぜ? その理由は?」と続く。
シナで見かけた「麻花辮」の画像を置いている。中共もずいぶんと漢字を統一して文化を壊している。このブログで書いたのでは「ラーメン等の
麺が面」「機械の
機が机」があった。
私が最もひどいなと思うのに「穀物」の「
穀」の字が同じ発音の「
谷」に統一されたことがある。「谷物」で「穀物」を想像するのは日本人には無理だ。「谷」には「コク」よりも「たに」のイメージが強すぎる。
そういう中共でも、この「様々なベンの字」はまだ生きているようだ。日本の「弁に統一」も「谷物」に匹敵するほど悪質である。
2001年にはまだ「
辧」の字が表記できなかったが、やっと出来るようになったという2009年の追記が懐かしかった。私のサイトのこの種のテーマには、切り貼りの画像が多い。2000年前後はまだまだ表記できない漢字が多く、それを〝画像〟として貼りつけているのである。
たとえばこんなヤツだ。

これ、中共簡体字の「
業」である。当時はこれが表示できなかった。だから漢字の「業」を拡大し、上の部分をカットして画像として説明している。簡体字だろうが繁体字だろうが楽々と表示できる今ではウソのような話だが、当時はこんな苦労をしていた。
タイ文字もまだ表示できずこれも画像でやっていた。出来るようになってからはうれしくてタイ文字キイボードを購入して使ったりもした。いまじゃもうすっかり忘れてしまった。なんとかまだ初歩的な読み書きは出来るがタイ語キイボードは使いこなせない。まだ所有しているが。
※
私は「ベンの字は弁」という教育で育った世代だから、「雄弁」にも「花弁」にも違和感はないが、正しくベンを使い分けてきた世代は、「弁護士」なんて書くことには抵抗があったろう。違和感のない世代である私ですら「弁える」なんて表示には、なんかちょっとおかしいのではないかと本能で反撥するのだから。
私のPCに入っている辞書で、「わきまえる」の漢字表記を「弁える」のみではなく「これは〝辨える〟の代用漢字だよ」と「辨える」も表示して教えてくれた良い辞書は、大辞泉、学研国語辞典、明鏡国語辞典。
対して「わきまえる」の漢字表記を「弁える」だけしか表示しなかったダメ辞典は、広辞苑、大辞林、新明解国語辞典。 私が自分の文章で「わきまえる」と使うことはまずないと思うが、そのときはしっかり「わきまえる」とカナで書き絶対に「弁える」とは書かないことをわきまえておこう。
・「残滓」の読みかた──室谷克実さんの講演から・三年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」
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- 2014/11/15(土) 21:43:28|
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「
携帯電話の辞書機能」に以下の文を追記。
【追記】──「怪訝」について──明鏡モバイル国語辞典の限界──2014/11/08「怪訝」をどう読むかと問われたら、試験に出たなら、多くのひとが「けげん」とするだろう。いぶかしむときの「けげんに思う」だ。一方でこれはそ
のまま音読みする「かいが」でもある。「かいがにたえない」は「怪訝に堪えない」と書き、「どうにも不可解だ、なんとも不思議だ」ぐらいの意味あいで使
う。というか「かいが」のほうが正しい。無理矢理「けげん」と読ませているだけだ。
辞書のない環境にいるとき心に浮かび、調べたいと焦るのはこの種のことになる。「怪訝(けげん)は怪訝(かいが)でも使うよな、怪訝にたえない、とか」と思い、「たえないは耐えないか、いやちがうな、どのたえないだ? 堪えないか? 絶えないではないな、耐えないでいいのか?」
ケータイに入っている明鏡モバイル国語辞典は「耐える、絶える、堪える」とみっつを表示してくれる。ありがたい。漢字なんてのは所詮和語の当て字だからどうで
もいい。「怪訝にたえない」でいい。しかしまた漢語から来ている「確定している組合せ」もあり、それを外すと無智丸だしの赤っ恥にもなる。「怪訝に堪えない」のような組合せで初めて「ここは〝けげん〟ではなく〝かいが〟と音読みにする」との主張になる。正解が欲しい。が残念ながらケータイの明鏡モバイルに「けげん」はあっても「かいが」はない。「絵画」のみだ。そりゃしょうがない、モバイル
用のちいさな辞書なんだもの。これに文句を言う気はない。
※
こんなのは帰宅してから調べればいいことだ。手帳にメモす
る。
帰宅して、PCに挿れてある大辞林、明鏡、広辞苑、新明解、学研、大辞泉で調べたら、なんと正規の辞書なのに「明鏡」には「絵画」しかなかっ
た。これは新鮮な発見。モバイルだから削ってあったのではなかった。明鏡はこういうふるくさい表現はもう放棄しているのだ。もちろん他の辞書にはぜんぶあった。たえないの漢字は「堪えない」であることも確認でき
た。
まあ「怪訝に堪えない」なんて表現を使うこともめったにあるまいが、でも辞書には「けげん」ではない読みと使いかたも載せておいて欲しいとも感じた。
「たえる」をみっつ確認できるだけで「ケータイの辞書」としては合格なのだけれど。
- 2014/11/08(土) 06:41:22|
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2014年08月02日16時13分58秒
市村正親 胃がん手術終了「順調に回復」
胃がんで休養中の市村正親(65)が2日までに、都内病院で腹腔(ふくくう)鏡手術を終えたことが同日、分かった。http://www.nikkansports.com/---------------
腹腔をずっと「ふくこう」、発音的には「ふっこう」と読んできたので、尊敬するアサヒシンブン系ニッカンスポーツ様に、カッコつきで「ふくくう」とされると、こりゃ今まで何十年も誤読してきたのかと焦る。
いま辞書は「ふくこう、ふくくう」と両方載せているようだ。
※
「腹腔」を「ふくくう」と読むのは、ツクリの「空─クウ」から読む、いわゆる百姓読み。
毎度書くが、この場合の百姓は「世の中のふつうの人々全般」の意味。元々「百姓」ということばは、漢字からも感じとれるように、農民、漁民、猟師、職人、すべてを含むひろい意味のことばだった。それがなぜか農民限定になり、さらには差別語にまでなってテレビ・ラジオ・新聞から追放されてしまった。いまもシナには、日本の「大衆酒場」の意味の「百姓酒場」というのがどこにでもある。
※
「脆弱(ぜいじゃく)」を「きじゃく」と読んで嗤われた女子アナのこれもツクリからの百姓読み。
麻生太郎が誤読した「破綻(はたん)」を「はじょう」、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」もこのパターンになる。
「ふくくう」も早い時期に言いだしたひとは麻生さんのように嗤われたはずである。しかし世の中、多数が強い。みんなが誤読すれば、それが一般的になり、やがて辞書にも載る。スポーツ紙にもカッコつきで読みが載るようになる。たぶん今が端境期で、あと10年もすれば「ふくくう」のほうが多くなるのだろう。
医療現場のあわただしさもあるように思う。医者にとっては「ふくこう」でも「ふくくう」でもどうでもいい、手伝うスタッフや看護師がわかればいい。「絶対にこれはふくこうだ」と思っている漢字好きの医師がいたとしても、手術がすんなり行くために「ふくくう」のほうが便利ならそれを使うだろう。漢字の読みなんてのは、そんなものでもある。
※
こういうことを書くと漢字好きのオヤジが最近の世相を嘆いていると勘違いされそうなので、書きたくないが書いておく。
私は高島俊男先生の「日本語が漢字と出会ったのは不幸だった」説を熱烈に支持するものである。できるだけ日本語に当て字の漢字は使わないように心懸けている。
たとえば高島さんは、「坐」「座」「挫」は「ザ」でしかないと言う。それを日本語の「すわる」に使うのは強引な当て字なのだ。だから私は「座る」「坐る」のような表記はせず、「すわる」にしている。この種の話に興味のあるかたはぜひ「漢字と日本人」(文春新書)を読んでください。

※
私は漢字なんかどうでもいい、という考えだ。ATOKが自慢する「記者が汽車で帰社する」なんてのを、バッカじゃねえの、と思っている。そんなことに力を注ぐなら、政治家、落語家、力士、そんな名前の変換をもっと充実させろ。
「腹腔」を「ふくこう」と読もうが「ふくくう」と読もうが、意味が通じればそれでいい。むしろどうでもいい混乱をなくすために、「ふくくう」に統一したらいい。同じく、「脆弱」は「きじゃく」で、「詳細」は「ようさい」にしたらいいのではないかとすら思う。いや「すら思う」ではなく、何十年後かには自然にそちらになっているだろう。
だからじつにもうどうでもいい話。でも私はまだ当分、「腹腔」という字を見かけたら、「ふくこう」と読んで生きて行く。
- 2014/08/02(土) 17:03:33|
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小保方さんの抗議文書のアップに「改ざん」「ねつ造」等のかな交じり熟語が見えた。なんとも見にくい。
今時の入力装置は「改竄」「捏造」と出せる。なのにそういう「かな交じり」を使って書いているのは、思うに、小保方さんが会社に提出するような書類では、いまだに「常用漢字の枠組」というのを順守せねばならない決まりがあるのだろう。 アサヒシンブン(笑)のように。
※
これを報じるNHKでは、そのまま「改ざん」「ねつ造」と表示して報道していた。
と書きつつ、いま苦労している。ATOKは「改竄」も「改ざん」も出せる。私は醜いかな交じり熟語は嫌いだからATOKの辞書からすべて削除してしまっている。ATOKを使い始めたころだからもう20年も前にやり、その辞書を引き継いできていることになる。だから出せない。よっていま「改竄」と売った後、「竄」の字を消し「ざん」とやって「改ざん」なる醜いものを作っている。手間が掛かる。しかも大嫌いなものを作るのだから精神に悪い。
NHKはふだんのニュースでも、そんな「かな交じり」にしているのだろうか。むかしはそうだった。いまもそうなのか。それともこれは小保方さんの原文がそうだったから尊重して同じような表記にしているのか。NHK嫌いで見ないので知らない。
※
月曜夜、日曜の「たかじん」をYouTubeで見た。このテーマを取りあげていた。 読売テレビは、小保方さんの原稿のアップで、そこにあるのが「改ざん」「ねつ造」であることを示しながらも、自分達の番組の表示では「改竄」「捏造」としていた。ほっとした。
※
醜い「かな交じり熟語」は、昭和20年から27年まで日本を占領していたGHQの指示により、内閣が漢字数を制限したことから始まる。当用漢字(現在の常用漢字)の意味は「
当面しばらくは
用いるが、そのうち全面廃止する
漢字というもの」の意である。全面廃止が基本だ。いわば1日20本走っていた漢字という電車を、もうすぐ廃線とすると決定し、それでも朝夕の2本だけは走らせたようなものである。20本走って生活に役立っていたのが、たった2本にされたら問題が生じるのは見えていた。命令は占領軍だが、西洋コンプレックスから、お先棒をかついで漢字撤廃運動をした連中もいた。いつだって真の敵は内部にいる。いくらだって逆らえた。でも阿った。
だけどその感覚はわかる気もする。こざかしい連中はいつもそれだ。日本が朝鮮を併合したとき、「ありがとうございます、これからもよろしくお願いします」と日本に阿った朝鮮人に限って、日本が負けたら、「力付くの植民地支配、許すまじ!」と愛国の戦士のようなふるまいに出る。
戦中は「皇軍、またも大勝利、撃ちてしやまん!」と煽っておいて、敗戦したら「私たちはもともと戦争には反対でした」と言いだすアサヒシンブンなんてのも同じ。
※
敗戦した日本が再度独立するのは昭和27年である。いわゆる〝団塊の世代〟は、日本が独立国ではない時代に生まれた鬼っ子になる。狂ったのがいるのもむべなるかな。
敗戦国を支配するGHQの指示により、敗戦国のインチキ内閣が使用漢字制限を厳命する。敗戦国の役所がそれに従うのは当然としても、まともなマスコミなら、そういう政策には抗うと思うのだが、アサヒシンブン、マイニチシンブンを始め、みなそれにすなおに従った。それどころか気味悪い「かな交じり熟語」を率先して作りだした。
漢字制限には従ったが表現は捨てなかった。その歪んだプライド?によって同じ音による置きかえという奇妙なものが生まれた。「交叉点」が「交差点」、「頽廃」が「退廃」のような意味不明のことばである。「義捐金」が「義援金」なんてのもそれになる。適当な同音の字がなく置きかえられないのはひらかなにした。そこから「改ざん」「ねつ造」「だ捕」「ら致」のような醜い、まったく意味のない「かな交じり熟語」が溢れることになる。これらのことばは文字が意味を持つのであり、「音」で表しても無意味である。こういうことをするひとの感覚ってどうなっているのだろう。
小学生低学年のころは難しい漢字はかなで書いて書ける字だけ漢字にした。綿矢りさの「にな川」はそれを遊んだものになる。しかし新聞社のそれはあるまい。
※
かといって私はむずかしい漢字を使うべしという考えではない。逆である。そこまでして漢字にこだわるなという考えだ。
識者がしばしば指摘しているが、こんな意味不明の表現をするなら、他のことばに置きかえればいいのである。簡単に出来ることだ。でもなぜかかたくなに、こんな意味不明の表記にしてもそういうことばを使いたがるのが役所や新聞社なのだ。彼らにはこういう「表記」を醜いと感じる感覚がないのだろうか。役所は役所だからしょうがないと苦笑して諦めるにしても、新聞社はなあ……。新聞社になんかなにも期待していないけど。
※
過日奥多摩を走ったとき、「土砂しゅんせつ作業」という看板を見かけた。「しゅんせつ」は「浚渫」か。
この看板を見たこどもは「しゅんせつって何だろう?」と考えるだろう。「しゅんせつ」とありルビが振ってあったら辞書で調べる。サンズイの2文字からそれなり推測もするだろう。
といって、こんなめったに使わない漢字をルビを振ってまで使えと言っているのではない。ぜんぶをかなにしてまで、そんなにまでして、このことばを使いたいのか、使わねばならないのか、そこが理解できないのである。河川の流路を拡げたり土砂を掬ったりする工事だ。いくらでももっとわかりやすく具体的に表現できるだろう。そのほうが地域住民だってどんな工事かわかっていいだろう。なぜこだわるのか。わからん感覚である。
※
小保方さんの場合は彼女の好みの表記ではなく、立場上たぶんそう制限されているのだろうと感じた。
NHKは、テレビ局以前に役所だから、ああいう表記をするのだろう。
小保方さんの「改ざん」「ねつ造」を確認しつつ、「改竄」「捏造」と表記した読売テレビに拍手を送りたい。
しかしまた原点に戻れば、小保方さんがそういう用語を使わねば、私もこんなことを書かずに済んだ、という話になってしまう。でも30歳の小保方さんでも「改竄」「捏造」ということばを使わねばならないという思い込みはあるのだろう。私だったら「改ざんしたつもりはありません」とかな交じりの表記を使うぐらいなら(規定により使わねばならないのなら)、「自分の意に添うような書きかえをしたつもりはありません」「悪意をもった書き直しはしていません」のように別の表現にするけれど。 それじゃダメなのか!?
---------------
【追記】──曖昧さの価値?──4/10
昨日は小保方さんの涙と笑顔の会見があり、夕方からテレビはそれ一色だったようだ。夜のニュースで5分ほど見た。すぐに消した。ま、その程度でいい。
さて、上記の例で、「なぜこんなわかりにくい表現をするのか!?」と疑問を抱いたのだが、もしかして「わかりにくいことに価値があるのか!?」と思うようになった。
「しゅんせつ作業」で言うと、この看板を作ったのは工事を担当する土木業者である。しかし文面は役所の許可を取って作るものだ。土木業者の担当が新米の、私のような感覚の者だったとする。「しゅんせつ作業」なんて表現が気味悪く、また「しゅんせつ」ではわからない住民が多かろうと、「河川流域拡張作業」とか「河川の土砂取り出し作業」のように具体的に銘打ち、役所に届けたとする。するときっと役所は「毎年どの業者も〝しゅんせつ作業〟としているので、そう名づけろ」と言うのだろう。いわゆる慣例だ。いや役所以前に、会社の上司から「しゅんせつ作業にしろ」と言われるか。いやいやそれ以前に、業者による落札のとき、すでに「××川しゅんせつ作業」で競っているのか。また、もしも役所側に私のような感覚のものがいたとしても(いないだろうけど)、長年の慣例で表記をあらためることは否定されるのだろう。
世の中にはいろんなクレーマーがいる。「河川流域拡張作業」と銘打ったら、「どこをどう拡張するのか」「拡張作業と言いつつ一部はむしろ狭くしているのではないか」などとケチをつけてくるのがいる。なら「しゅんせつ作業」と、むずかしい漢字をひらかなで書いた、含みをもった曖昧表現にしておいたほうが多くの場面に対応できるのだ。
※
「改竄」と「捏造」も、「悪意を持って文章を直してはいません」のように口語的な直截表現をするよりも、「改ざんの事実はありません」のように堅苦しい玉虫色にしておいたほうが後々の弁明のためにもいいのだろう。
※
これらは「わかりやすい表現を、むずかしい漢字を使ってわかりにくい表現にしている例」だが、放送禁止用語のようなものは逆の流れにある。
「盲」「びっこ」を、「目の不自由なかた」「足の不自由なかた」のようにする。「盲」「びっこ」という定着している日本語を、差別的であると簡易なわかりやすい表現で置きかえている。しかし簡易な表現ではあるが、「不自由なかた」は、これまた曖昧で意味不明になっている。これを最初に思いついたひとは相当にことばに不自由なかただ。だからこれもまた「わかりやすい表現のようでいて、わかりにくい表現への置きかえ」になる。
このやりかたが、本音と建て前を使い分ける日本人らしさ、と言えばそうなのもかしれないが……。
※
私のきらいな競馬ライターに、簡単に書けることをやたらむずかしく書くのがいる。自分に自信のない臆病さを、むずかしそうなことばという甲冑で隠しているみっともないひとだ。しかし野っ原を裸で走ればすり傷だらけになる。「改ざん」や「しゅんせつ」のような何とでも逃げの聞くような便利用語をいくつか用意しているほうが生きるのには楽なのかも知れない。
- 2014/04/09(水) 04:41:58|
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昨年、10年遅れで松嶋菜々子の「やまとなでしこ」を見たとき、劇中の舞台として「慶明
付属病院」というのが出てきて奇妙に感じた。
大学のふぞく学校やふぞく病院に関わったひとならわかるだろうが、表記は「
附属」である。附属と付属は意味からして異なる。附属を付属と書くのは明らかな誤記である。
理由は簡単。敗戦後の漢字制限で「附」が使えなくなったから当て字で似たような「付」にしたのだ。「頽廃」を「退廃」に、「交叉点」を「交差点」にしたのと同じ、くだらないこと。無意味。いや、有害なこと。
※
私は「やまとなでしこ」でそれを見たとき、「これはシナリオの文字なのだろうか!?」と考えた。
場所はその辺のロケ地である。使用させてもらった建物の入口に、小道具係が作った「慶明大学付属病院」というプレートを貼っている。
まともな大学病院だったらぜったいに「附属病院」である。
シナリオライターが、どこかの附属学校を出ていたら必ず「附属」と書くだろう。シナリオライターはどう書いたのだろう。附属か付属か。
また演出家が附属学校出身だったら、シナリオにそう書いてあったとしても、「附属」に直すだろう。「付属病院」なんて意味不明のことばは字面からしても我慢できるものではない。
さらにまた、シナリオライターも演出家も「附属」に縁がなかったとしても、実際にそれを作る小道具係が漢字にこだわりがあったら、「これは〝附属〟じゃないんですか」と言ったろう。
さらにさらにまた、スポンサーがそれに誇りがあったら、「あの看板の〝付属〟はヘンなんじゃないの」と口を出したろう。
シナリオライター、演出家、小道具係、スポンサー、いくつもの目を通りぬけて不自然な「付属病院」であることが不思議だった。ある意味、「やまとなでしこ」を見て、いちばん心に残った一件になる(笑)。
好意的に解釈するなら、「架空のドラマの存在しない病院なのだから」と、あえて「付属」にした、ともとれる。
※
今日、「小沢一郎離婚──放射能から逃げだす」をやらないかなとテレビを点けたら、「臓器移植法の変更により6歳のこどもの臓器移植が行われた」とNHKが報じていた。舞台は「富山大学
付属病院」とテロップが出る。テレビではもうこんな表記をするのか。知らなかった。
本物の富山大学ふぞく病院も、時勢にまかせて「付属病院」にしているのか? まさかね。
調べてみると、インターネットの検索項目では「付属病院」となったりしているが、本体はしっかり、「附属」としていた。そうだよなあ、付属病院なんて、するはずがない。そもそもそんなものは存在しない。安心した。


※
この富山大学附属病院で脳死したこどもの臓器を移植手術したのが大阪大学附属病院。
おどろいたことに読売新聞の記事では「付属病院」になっていた。
改正臓器移植法に基づき、6歳未満で初めて脳死と判定された男児から提供される臓器の摘出手術が15日、男児の入院する富山大学付属病院(富山市)で始まった。
心臓は大阪大学付属病院(大阪府吹田市)に運ばれ、10歳未満の女児に移植する。(読売新聞)テレビも新聞もここまでひどい。最大発行部数の読売が、すでにもうこんな表記をしている。おどろいた。NHKや読売新聞がこうなのだから、フジテレビの架空のドラマで「付属病院」なのは当然となる。
しかし信じていたとおり、本物はしっかり、

だった。
※
ということで、テレビや新聞がそんな誤表記をしようと、本家本物はしっかり「附属」と正しく書いているのだと安心しつつ、同種のことをいくつか見ていたらショックなことがあった。

こういうとこを出たひとは、自分の出身校を「付属」と書くだろう。だって正規の表記が「付属」なのだから。明治大学に関しては、「明治大学附属中学校」と書いたら誤記になる。いやはや。これを決断したひとは、ものすごくかっこわるいことをしたんだけど、自覚はないんだろうなあ。
「やまとなでしこ」のシナリオライターや演出家は明治出身だったのかな。
しみじみがっかりした。
※
【附記】──兵庫県立大付属高校──10/3修学旅行が韓国である高校は多い。そのことに生徒達が反撥し、旅行先を替えて欲しいという運動をしている高校があると知る。よいことだ。
高校の名前は「兵庫県立大付属高校」。
兵庫県というと国立大学は神戸大学か。大きな県だから、それとはべつに県立大学をもっているらしい。初めて聞いた。まああっちのほうに興味がないからそんなものだ。
しかしこの「付属高校」にはがっかりした。明治大学に続きふたつめになる。
神戸大学のほうは「附属病院」とかぜんぶしっかりしている。いい高校なのに、名前はすこし残念。
---------------
臓器移植法死んだひとの躰を切り刻み、新鮮なハツやレバーを取りだし、他人の躰に移植する。
ひとは、そこまでして生きるべきなのだろうか。
富山の亡くなった6歳のこどもの躰からは、「使えそうなモノ」が切りとられ、全国のいくつかの病院に運ばれた。冷凍で活きの良さを保ったのだろう。そこで移植手術が行われる。遺族は「誰かの躰で役だって生きて行くのなら……」と語ったとか。
※
種の基本として、優勢劣勢の問題は看過できない。
野田聖子のこどもは、生まれる前から障碍が見えていた。むかしなら生まれてすぐに死んでいた。
しかし国会議員先生の大冒険だ。現代医学の精鋭が秘術を尽くす。よって、生まれてきてから身体中、パイプだらけ。手術に次ぐ手術。全身切り傷だらけ。これからしなければならない手術も複数待っている。そうしてなんとか生きている。しかしこのまま生き長らえても、脳を始め数数の障害が残ることは確定している。それは「貴い命」なのか。単なる虐待ではないのか。
以前も書いたことだけど、1歳未満の重度の障碍をもった赤ん坊を、寄附を募って1億円集め、アメリカに渡って手術する。それって「人道的」なのか。そりゃ天使の笑顔だ、それがもうすぐ消えてしまう。かなしいに決まっている。「なんとしても」と思う。
だけど、死なせてやれよ。赤ん坊はそう思っている。大金持ちが自分の金ならまだしも、他人様から寄附を募ってまでその命にこだわるなよ。天命として死なせてやり、あらたにまた作ればいい。あらたにはもう作れない夫婦だったなら、それはそれでまた己の運命として受けいれるべきだ。どうにもこういう話題には納得できない。
それが「種」というもの、「命」というものの基本だと思う。
※
ひとは、そんなにまでして生きるべきなのか。
息子から肝臓をもらったのに、コウノヨウヘイ、タロウ親子がいた。先日亡くなった安岡力也も息子がそうしたのだったか。
親が子に臓器をあげるならともかく、子の臓器を親がもらうとは、なんたることか、鬼畜の所業という批判もあった。しかしこれは成人した親子の問題である。子が親のために差し出したのだから、これはこれでいいだろう。おとなの話だ。私も父が私の腎臓や肝臓で長らえることができるのなら差しだす覚悟はあった。
覚悟はあったし、もし必要ならほんとにそうしていたけど、それが「ひとの道」として、正しいかどうかはまた別の話になる。やはり命は「順序」だから、親が子にすることはあっても、逆はよくないように思う。
そこまでして、生きるべきなのか。
1歳でも100歳でも、天寿は天寿だろう。
※
ほんとうはこちらのことを書こうと思ったのだが、「やまとなでしこ」の時から気になっていたので、そっち中心になってしまった。
- 2012/06/15(金) 20:16:44|
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漢字とひらがな──とめる・やめる・とどめる
今週の『お言葉ですが…』は、高島さんの持論であるひらがなを使え、の巻。
最初は「止める」が「とめるかやめるかわからない文章が多い」から始まる。これはまったくその通りなので私は今、とめるややめるを漢字で書くことはしない。泊めるや停めるは使っているが。
辞書を使わねば読めないようなとんでもなく難しい漢字を使うことは一種の知的劣等感である。シークレットブーツを履くのと同じ感覚だ。背が低くても自分の中身に自信をもっている人はそんなものは履かないように、人間も中身に自信を持てばやたら難しい漢字は使わなくなる。「小説教室」をカルチャースクールでやっている作家講師がみな口を揃える生徒の缺点も彼らがやたらと難しい漢字を使いたがる、である。いわばこけおどしだ。
ネット上の文章でもいくらでも実例を挙げられるが好んで波風を立てたいわけではないので抑える。一例だけ挙げるなら、「
ほだされる」なんてのは和語のいいことばである。これはひらがな五文字の中にやさしさがある。これに「絆される」と漢字を当てると、糸偏が強烈すぎる。「ほだされる」という「ほだす」の受身形を敢えて漢字で書くならそれは「立心偏」だろう。心や情に関することばだ。だがこの糸偏の漢字があるとこんがらがった糸のイメージが押し寄せてきて興ざめだ。「ほだす」の本来の意味が「つなぐ・束縛する」であろうと、別れようと思いつつ別れられない「女の情にほだされる」と使うとき、漢字はない方がいい。
いずれにせよ難しい漢字を連発する人は眉唾物である。もちろん京極のようにそれを味としている人は別として、だ。売りにしているとわかっていても私は京極を体質的に受けつけないけれど。
難しい漢字を連発する人に限って会話の中に英単語を交ぜる人を否定する人が多い。同じなんだって(笑)。いずれにせよ、「なにか」で、人を圧倒しようとする人は、中身のない人である。
やたら難しい漢字を使う人は知的劣等感だが、どっちに読んだらいいかわからない漢字の使い方をする人は無神経である。
漢字の使い方でその人の心がわかる。かといって「会社を辞める」を「会社をやめる」と書くと「辞める」を知らないのではと思われるから、私のような雑文書きは、画一化されたマニュアルが横行する社会で生きて行くのはけっこう面倒である。ま、「ビッグ」になれば問題はないのだろうが。
好きな作家に、「あの作品では『あおい空』になってましたね」と言い、「ウン、どうしても青いでも蒼いでもなくて、ひらがなしかなかったんだ」なんて話すのは楽しい。
と脱線してしまった。本題。
高島さんは「とめる・やめる」に続いて、「止る」の例を出す。これは「泊まる」の意味らしく、「藤沢の旅籠に止る」のようにむかしの文章には多いのだとか。そしてこれは「とどまる」であるとする。「とどまる」だと「留まる」があるが、「止る」が主流だったという。今の時代「とどまる」を使うには「とどまる」と書くしかあるまいとして、中には「止どまる」とやる人もいるがこれは論外とする。
送りがなの問題は深刻だ。私もまだ不徹底なので悩んでいる。ただ今の社会が、というかマスコミ界が、こちらが「終る」と書いても「終わる」に直してしまうのなら、こちらとしては高島さんの言うように「おわる」と書くしかない。これまた長年の習慣であり、なにも漢字で書く必要はない。「終わる」も「終る」も当て字でしかないのだから。
毎週『週刊文春』を買って、電車の中、ラーメン屋、晩酌のとき、といろんなシチュエーションで『お言葉ですが…』を読むのが楽しみだった。その楽しみを奪ったキマタ編集長への恨みは深い。かといって不満を言いつつ読むのだけは我慢ならなかったから、今のスッパリやめている自分は気に入っている。
- 2005/09/12(月) 03:06:13|
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